番外編 太子殿下の護衛の一日 後編
再び近衛から宦官の服装になるのだが、一日に何度も着替えるのは面倒なもので。最近では早着替えが得意になってきた気がする。
こうして宦官の立彬となった立勇が雨妹を探そうとすると、後宮に張り付いている明賢の密偵が姿を現し、黙したままスッとある方向を指す。
――今日の雨妹の居所は、あちらか。
立勇はその密偵に了解の意の代わりに軽く片手をあげ、教えてもらった方へと歩み出し、やがて雨妹の姿を発見した。
そこいらの木に背をもたれさせ、竹筒から水をぐいっとあおっている様子は、どこか元気がないというか、気落ち気味に見える。
「どうした、具合でも悪いのか?」
立勇はそう声をかける。
だとしたら医局の陳と仲が良いのだから、早く薬を貰いに行けばいい、と続けようとしたのだが。
雨妹は立勇にちらりと視線をよこしたかと思えば、ボソッと呟いた。
「……お腹が空きました」
どうやら腹を空かせてへばっていたようだ。
今日は間食するものを手に入れ損ねているらしい。
「では、今ここにちょうど菓子の入った箱があるのだが」
「食べていいんですかっ!?」
立勇が箱を見せると、雨妹はとたんに目を輝かせる。
「……貰い物だが、わけてやろうと思ったものだ。
食べるといい」
「ありがとうございます、いただきます!」
どこで誰が聞いているかわからないので、明賢からという説明をせずにそう説明すると。
雨妹はそんな説明はおざなりに聞き流すように、視線を巡らせ座るのによさげな場所を探し、物置小屋の軒下の石段に腰を下ろす。
実に単純な娘である。
「わぁ、糕だ!
せっかくだから、立彬様も一緒に食べましょうよ!」
雨妹に手招きで誘われ、立勇は「どうするかな」と考える。
――誘われたのだから、断るのは失礼だな。
それに宮城と後宮の往復をさせられたのだから、このくらいの役得くらいいいだろう。
立勇はそう自分に言い訳をしつつ、雨妹の隣に腰をおろす。
「うーん、美味しい!
でも美娜さんの作り立て糕の美味しさには敵わないかも!」
雨妹が満面の笑みで糕を頬張りながら、そんな感想を漏らす。
確かに、作り立ての糕とは美味しいものだろう。
出来たて料理とは縁遠い明賢が聞いたら、羨ましがることだろう。
だから立勇も、たまに太子宮の台所で試食という名のつまみ食いをしていることは、絶対に知られないようにしている。
繰り返すが護衛は体力勝負なため、食べないと身体がもたないのだ。
こんな風に考えていると、ふと今朝の事を思い出す。
「そうだ雨妹、朝の寝起きの悪いものを速やかに起こすための、よい方法というものを知らないものだろうか?」
「早く寝てください」
立勇の質問に、雨妹が当然と言えば当然な答えを返してくる。
そのくらいのことは、自分にだって聞かずともわかることだと、少しムッとすると。
「ああ、あと神経が疲れていても、身体が疲れていないと眠れませんから。
太陽の光を浴びながらの、軽い運動をお勧めします……太子殿下って、朝が弱い方なんですか?」
雨妹がそう付け加えつつ、最後に尋ねてくる。
「黙秘だ」
立勇はそう答えをはぐらかすと、思案してみた。
――運動か。
一度、近衛に交じって走ってもらうのはどうだろうか、と立勇は半ば本気で考えつつ。
糕を食べ終えると雨妹と別れ、再び近衛の服装に着替えて明賢の執務室へと戻ると。
「おかえり立勇」
そう言って迎える明賢の前に積まれた書類が、あからさまに増えている。
恐らく、皇帝の処理すべき書類が回されてきたのだろう。
これはいつものことと言えるのだが、それでも日々酷くなっている気がする。
ここのところの明賢の机仕事の量は過剰だろう。
以前は明賢とて、剣を振ったりという身体を動かす時間を取っていたのだから、案外雨妹の助言は当たっているのかもしれない。
それに明賢が真面目だからこの量を黙々とこなしてしまうのだが、よく考えれば明賢一人がほんの少々仕事を放り出しても、国がすぐに潰れてしまうなんてあり得ないだろう。
「明賢様、外はとてもよい天気ですよ。
書類はしばらく放っておいて、少々散歩でもしませんか?」
「珍しいことを言うものだね、立勇」
主の予定に基本的に口出ししない立勇の言葉に、明賢は眼を瞬かせると、「いいねぇ」と顔を綻ばせる。
そして官吏たちの「そのようなこと、いけませんぞ!」という悲鳴を丸無視して、近衛の訓練の視察という名目で散歩に出ることとなった。
――あの連中はもっと、皇帝陛下を執務室に留める努力をするべきだろうに。
代わりを簡単に引き受ける明賢がいるせいで、官吏たちはそのあたりを楽しているように思える。
こうして急遽変更となった予定だったが、これが予想外の効果をもたらした。
視察を終えて執務室へ戻ると、積まれた書類が減っていたのである。
――さては、明賢様がせずともよい仕事が、だいぶ混じっていたな。
明賢とてそうした仕事は突き返しているものの、それらの書類を確認する手間というものが発生するわけで。
その無駄時間も明賢の一日を圧迫していたのだ。
今回の雨妹の助言が、なかなかよい仕事をしたものだ。
今後もこの手を使っていこう、と立勇は心に決める。
それから机仕事に戻った明賢は、減った書類のおかげで余裕ができたため、官吏を排して雨妹の様子を聞いたりして、執務室には久しぶりにのんびりとした時間が流れていた。
「本当に、あの娘は食べることが好きだねぇ」
「そのようですね」
そう会話しながら目を細める明賢は、なにかと不自由な己の代わりに、雨妹の自由を望んでいるように感じる。
複雑であやふやな雨妹と明賢の関係だが、主がよい方向へ変化するといいと、立勇は思う。
それから仕事を終えて後宮へ戻り、いつもより夕食が進んだ明賢は、その夜はいつになくぐっすりと眠ったようで。
翌朝は自分で起きて来たのであった。
雨妹の言葉通りの効果に、立勇は改めてあの娘の力を知る。
――礼として、饅頭でも差し入れるか。
それにはまた着替えの面倒があるのだが、それを押して会いに行ってもいいと思った立勇なのだった。




