721話 実はすごい人だった
そして話がやっと野猫の相談事に移る。
「その卓敏さんですが、今は野猫の同僚で洗濯仕事をしているのですが、以前は衣装係だったそうなのですよ」
その衣装係の仕事の中でも、皇后の衣装に香りをつける役目を担っていたこと。けれどその香りの具合をしくじって衣装を臭くしたことで罰せられてしまったこと。敏は皇后に害意ありと決めつけられてしまったのだが、野猫の目にはとても真面目で親切な人物に映っていることを話す。
「それで、匂いに関する病気があるのかと、野猫に聞かれたのです」
このざっとした話の流れに、立彬は難しい顔で思案する。
「皇后陛下の香り師か、また珍しい者に繋がったな。私は顔も見たことがないが、母上ならご存知であろうか?」
「衣装係は裏方ですしねぇ」
立彬が裏方仕事の者まで知らないのは当然だろうと雨妹は考えたのだが、立彬が言いたいのはどうやらそういう事ではないらしい。
「優秀な香り師は、他の宮からの引き抜きを恐れて隠しておくものだ。職を外されたとはいえ、お前にも会えるくらいの表に出て来たのは非常に珍しい例であろう」
「そうなんですか?」
どうやら敏は雨妹の想像以上の立場にいた人だったらしい。野猫はずいぶんと稀有な人物と出会ったのだなと、今更ながらにわかる。
「皇后陛下に引き続いてそういう人を引き当てた野猫は、なにか天性の引きの強さを持っているんでしょうかね?」
雨妹が感心した風に言うと、何故か立彬から渋い顔をされた。
「なんです? その顔は」
「いや、気にするな。今更だ」
謎な反応をされた雨妹が不思議そうにすると、立彬がそう返して眉間を揉んでいる。
「とにかくだ。その卓敏とやらの内情が善か悪かは別にするとして、皇后陛下はさぞかしお困りであろうよ。香り師が好みの香りを作るのは相当な修練がいるそうであるし、安易に替えが効かない」
「ふむふむ」
雨妹はこの立彬の解説を興味深く聞く。
前世でも香水系の趣味がなかった雨妹なので、「大変そうだなぁ」というぼんやりとした印象しかない。看護師の同僚には、仕事と個人の時間との切り替えに香水を使っている洒落た人もいたけれど、自分がそれをする程の気持ちは持てなかったのだ。けれど立彬のこの言い様だと――
「ひょっとして香りとは、お妃様方の人付き合いで重要なのですか?」
「もちろんだ」
雨妹の疑問に答える立彬によると、妃嬪たちは上位の者と香りが被ることを避けるのだそうだ。衣装の色合いが被ると「なんと恐れ知らずな!」と叱られるのだから、それが香りであっても同様なのである。
それ故に、特に皇后ともなれば下位の者が真似のできない一点物の香を纏わなければならない。ありふれた香りを身に着けていれば、他者が容易に真似のできる人物であると己から宣伝することとなり、「貧しい心根であること」と嘲笑されるのだから。
その皇后の香りをこれまで作っていたのが、卓敏という香り師であるのだ。
――なるほど、そりゃあ拙いよね。
花の宴以降の皇后は表舞台に出ていなかったが、そのおかげでこの香り師の問題が表面化していなかったとも言える。敏の仕事はあの馬次席女官も口出しができない領域であったという話であるし、敏が医者不信に陥るということは、逆に言えば何度も医者に診てもらっているということでもある。やはり立彬の言う通り、替えの効かない仕事であるが故なのだろう。
けれどそうまでしても、敏が体調不良だという証拠が出てこなかったのだから、「わざと衣装を臭くした」という悪意の囁きに周囲が流されてしまったのも、また理解できる流れだ。
皇后のお付きの女官や宮女たちも、そうやって敏を「害意あり」と決めつけて叩いて追い出した手前、再び元の職に戻すことはしたくないに違いない。敏が万が一帰り咲けば、どんな逆襲をされるのかと恐れているであろうから。
その一方で、敏を皇后宮から追い出さなかったのは、彼女の香りの調合技術が他に漏れないようにするためで、そのまま宮で飼い殺しするつもりだったのだろう。
――けれど、それで野猫の近くで仕事をしていたっていうのは、皮肉な話か。
野猫が普段仕事をしている洗濯場は、皇后宮の外れも外れだ。普通であれば皇后がもし「やはり卓敏に戻ってほしい」と思ったとしても、敏が今どこでなにをしているのかわからないだろうし、周囲も当然教えない。野猫の周囲では敏の素性は知れていたようだが、下っ端洗濯係の話が皇后の耳に入ることなどないはずだ。
そこで偶然敏の元へ行き当たった野猫のことは、皇后がずっと密かに気にかけていたとするならば、「よくやった!」と褒めたいくらいであろう。
――そりゃあ、皇后陛下も野猫の手紙の代筆くらい喜んで引き受けるか。
それで香り師の卓敏が戻って来るのであれば、安い手間である。




