719話 というわけで
「敏さんって、やっぱり臭いに鈍かったよね?」
雨妹は頭の中を整理するように、短時間ながら観察して抱いた疑いを呟く。
あの洗う前の洗濯物がたんまりと集められた部屋は、かなり臭かった。その臭いが籠った部屋に長時間居られるのは、仕事であるのと慣れもあるのかもしれないが、敏は休憩に誘われて部屋から出る際に、特に深呼吸したりして嗅覚を正常に直そうとする仕草は見られなかった。
「でも、匂いが全然わからないわけでもなさそうだった」
敏が嗅覚を完全に失ったわけではないのは、麻花を美味しく食べていたことでわかる。味というのは匂いと連動している感覚なので、匂いが感じられないと味の感覚も希薄になるのだ。この点では、過去に佳の潘公主が味覚障害と共に発症していた時はもっと重症で、食べ物の香りすらわからなくなっていたのだから。
しかし、ここが落とし穴でもある。
日常生活に最低限困らない嗅覚は残っていると、他人から不調を理解されないだろう。頭を打って嗅覚障害が出たと言っても、その症状の度合いは様々だ。敏は恐らく繊細な匂いを嗅ぎ分けることができなくなり、それで匂いを以前に増して濃くして、生み出した香りが臭いとされてしまったのだろう。それが敏の気持ちの問題に捉えられ、害意を疑われた。
だが、敏のような症例が後宮の身近にそれなりの数いるとなれば、周囲の反応も変わるはずだ。こういう症状が軍ではたまにある可能性はあると、雨妹は睨んでいる。
それこそ訓練や実践で頭を打撲することは、いくら防具で護っても、ある程度は避けられないであろう。なにしろ頭は人間の身体の中で隠すのが難しい急所なのだから。極端な話、腕や足を失っても生き残ることができるが、頭がなくなれば即死亡である。戦場において、真っ先に狙われる箇所であることは間違いない。だから、頭への攻撃は特に訓練されると思うのだ。
当然先に陳と話をしに行くが、あの熱心な陳のことだから、軍での症例も取り寄せて研究していそうだ。雨妹が相談すれば、軍医へ紹介状を書いてくれるだろう。それと同時に、軍関係ならば立彬に聞くのが手っ取り早い。そして軍で症例数がそれなりにあれば、敏も詐欺師だなんだと言わずに信じるのではないだろうか?
敏のように医者不信に陥ってしまった患者には、口先での慰めよりなによりも、自身の苦しみに寄り添う的確な診断こそが一番の薬だと、雨妹は思うのだ。だからこそぬか喜びをさせないためにも、慎重に話を進めたいところである。医者に裏切られた人は、人が変われど同じ医者の言葉を容易に信じることをしないだろう。信じて、再び裏切られる痛みを恐れるが故に。
これを乗り越えるには、一つ一つ事実を目の前に重ねてみせるしか方法はない。
「医療は詐欺じゃないって、敏さんにわかってもらいたいもんね!」
雨妹はそう言って一人で気合を入れるのだった。
そうとなれば善は急げというわけで、雨妹は早速立彬に会おうと太子宮へと向かった。
立彬にすぐ会えれば運が良いし、会えなくても「聞きたいことがある」と言伝を残せば、後でなにか反応が来るだろう。
などというように思っていたのだが。
「あれ、立彬様?」
到着した太子宮の裏門で、どういうわけだか立彬が雨妹を待ち構えていた。いや、もしかすると待っていたわけではなくて、これからちょうど用事で出かけるところだったのだろうか?
「お出かけですか? 実は私もお話があったのですが、また今度聞いてくださいね」
こればかりは仕方がないと、雨妹はそう言って立ち去ろうとしたのだが。
「いや、お前を待っていた。こちらに向かっている姿が見えたからな」
「……そうですか?」
なんと、立彬は雨妹が太子宮へ来るのがわかっていたという。なんでもつい今しがたに太子が宮に帰って来たらしく、そのお供をしていた立彬は、一つ隣の通りを走る雨妹を目撃したとのことである。
『雨妹は君に会いに行くのではないかな?』
太子も同様に目撃したようで、後のことは他に任せて待ってあげなさいと命じられたのだという。太子からの下っ端への配慮が有難いことだ。




