717話 戦略的撤退
人間の感覚は脳が司令塔の役目をしているものであり、その脳周辺が負傷すれば、感覚も同時に負傷する。おそらく敏は花の宴で転んだ際に、嗅覚に関わる部分になんらかの障害が出てしまったのだろう。
それにもしかすると敏は、その「多少はあった」という転んだ後に出た痛みが、今も続いていて、それを我慢している可能性もある。我慢強さというのは、こういう場合には医者にとって不利益しかないのだ。
――その点、敏さんは我慢強さが凄そうだもんね。
なにしろ敏は、皇太后がいた頃に皇后宮で出世した人である。
皇太后は派手なことを好む一方で、配下を厳しく取り締まるような人でもなかったように見受けられる。もしその辺りに厳しい人であったのならば、東国兵に入り込まれるような隙を生むことにはならず、隠居に追い込まれることもなかったのだから。
その皇太后派が幅を利かせていたかつての皇后宮で、仕事の誠実さだけで成り上がるということは、かなり我慢の連続であったに違いない。少なくとも今の短い会話の感じでは、敏が賄賂やら裏工作が得意なようには見えなかった。
これも情報が少ないために断定はできないが、これがもし敏が他にもなにかをやらかして要注意するべき人物であるのならば、そもそも野猫の雨妹への手紙を皇后が代わりに書いたりはしなかっただろう。
これこそが、雨妹が敏の善性を半ば信じている根拠であった。
そして皇后も敏のことを惜しい人材だと思うからこそ、手助けしたのだと思う。もしくは、自身も真面目である皇后が、敏へ似た者同士の匂いを嗅ぎ取ったかだ。
雨妹がこのように考えていると、ずっと会話に口を挟まず黙っていた野猫が、眉をへにょりとさせながら敏に話しかけた。
「ねえ敏さん、雨妹もこんなに心配するくらいだから、やっぱり良くないんだよ。今からでも医者に診てもらおう?」
すると途端に、敏は表情を硬くしてしまう。
「詐欺師と会うのは、時間の無駄だ!」
そして雨妹に丁寧な口調であった敏が、吐き捨てるように言う。それに野猫がビクリと肩を跳ねさせて、雨妹も思わず仰け反る。
――これはまた、拗れていそうだなぁ。
雨妹は今の一瞬で敏の医者不信の根深さを感じ取り、これ以上押すことは逆効果だと察知した。
「私も転んで怪我をした影響が後になってわかった人を知っているもので、お節介を言ってしまいました。少々しつこかったことを謝罪したく思います」
雨妹はそう言って済まなそうな顔で謝る。この場での説得は止めて、撤退に方針転換したのだ。
「いえ……」
恐らく反射的にきつく言ってしまったのであろう敏が、ギュッと眉を寄せた。
「あなたも親切心だったのでしょう。こちらこそ、態度が悪かったですね」
お互いに謝り合ったところで気まずい空気は消えず、しばし三人で麻花を齧る音だけが響く。
「それでは、あまり長く敏さんの時間を奪ってもいけませんね。野猫、じゃあまた」
「あ、うん」
強引におやつ休憩を切り上げるように立ち上がった雨妹を、野猫が不安そうというか、「この場をどうするんだ?」という顔で見てくる。
「野猫、ここは一旦引くよ。作戦を練る必要がありそうだからね」
雨妹が小声で囁くと、野猫もひとまずコクコクと頷いてから、
「おらも、洗濯に戻るかな!」
不自然に大きな声で宣言して立ち上がった。
「そうですね、そろそろわたくしも」
敏も同様に立ち上がったが、野猫に「私と言いなさい」というお叱りが入らなかったのは、彼女も平常心ではないということか。
こうして、雨妹は皇后宮からひとまず立ち去るのであった。




