714話 洗濯係の卓敏
「へへ、叱られたぞ」
ちっとも堪えていない顔で囁いてくる野猫に、雨妹は思わず苦笑する。ああいう礼儀は、今の野猫に最も必要な技能であろうに、そこを果たしてわかっているのかどうなのか? まあ叱られて嫌な顔をするわけでもないので、こういうことを繰り返して、やがて礼儀が身に付いていくのだろう。
「まったく騒々しい」
敏がそんな野猫をどこか呆れたように見てから、ようやく一緒にいる雨妹の存在に気付く。
「皇后宮の者ではありませんね、誰ですか?」
「お仕事中に失礼いたします」
敏に尋ねられ、雨妹は上位の者に対する礼の姿勢を取る。
「皇后宮で仕事を依頼されていた、掃除係の張雨妹と申します。友人である野猫の顔を見に来たところでした」
丁寧に敬う態度を見せる雨妹に、敏が微かに目を細めた。
「わたくしは卓敏です。そういえば最近よくそのような者らを見かけましたね。その仕事は終わったのですか?」
相手からの名乗りがあった後に問われ、雨妹は「はい」と頷く。
「本日、筆頭女官様にその件の完了報告をして、今はその帰りでした」
本来の優先度は逆であったなんて、わざわざ口にしなくてもいいものだ。そう思いつつ、雨妹は敏を改めて観察する。
――なんだか、雰囲気が楊おばさんに似ているな。
その厳しい眼差しの中に野猫を見下さない心根を見取り、雨妹はそう感じた。
卓敏が元は皇后に近しい仕事をしていたのなら、本人もそれなりに着飾っていたのであろうに。それが今は野猫とあまり変わらない身なりをしており、お仕着せも「新入りよりは少し上等」程度の質である。それでいて汚れた洗濯物に囲まれていても、その汚れに染まるまいと背筋を伸ばし、くたびれた様子を見せない。
なるほど、この人が皇后への嫌がらせで悪臭をつけたというのは、すぐには信じられないものがある。
――まあけれど、真実っていうのは見た目じゃわからないものでもあるか。
彼女の処分が降格程度で済んでいるのであれば、害意なしと思われたということなのだろうけれど。そのような挫折を経験しながらも、そのように敏なりの誇り高さを表しているのは、相当な気概があるということか。
いや、今雨妹が考えるべきは、彼女の罪の真実ではない。元は皇后の近くでお役目を果たしていたのも、皇后大好きな野猫的好感点であり、少なくとも卓敏とは野猫にとっての日常作法の良いお手本となり得る人なのだ。今の所、野猫がこの人に懐くのが危うい、ということはなさそうだった。
こうして敏についての考察をしたところで、現状に戻る。
――それにしても、元は偉かった人の仕事がコレか……。
この部屋は洗う前の洗濯物が溜められているだけあり、室内は結構な臭いだ。雨妹はごみ捨てで悪臭には慣れている身であるが、元が香りに関する仕事をしていたのならば、この環境は過酷であろうに。しかも、明らかに一人で任せていい量ではない。後から応援が来るということだろうか?
――いや、来ない可能性の方が高いかな……。
おそらくこれは、敏への嫌がらせの一環なのだ。偉ぶっていた人物が下位に成り下がったのだから、それまで敏を雲の上の人物だと見上げて来た宮女たちにとって、留飲を下す良い機会なのだろう。
そしてそんな部屋に平然として居られる敏は、果たして彼女の使命感や意地だけでのことなのか?
雨妹が己の考えに耽っていると、野猫が洗濯物をかき分けて敏に近付く。
「敏さん、一緒に休もう――いや、休憩しませんか!」
野猫がそう声を掛けたものの、敏の視線を受けてから慌てて言い直す。すると敏はため息を一つ吐いてから、「やれやれ」と立ち上がる。
「そうしましょうか。そろそろ腰が痛くなってきたところですから」
「やった!」
野猫が喜んで飛び上がるのは、敏を休憩に連れ出せたからか、「敏と話をする」という目的を達成できそうであるからか。この瞬間、野猫は後者の目的を忘れていそうだという感じが、雨妹としてはしなくもない。




