712話 こちらが本命
「ごめんごめん、話が長引いちゃって」
「ん~ん、仕事しながら待っていたから、別にいいぞ」
大きく手を振りながら近付く雨妹が謝るのに、野猫がそう言って周囲に散らばる洗濯物が詰まった籠を目で指してにぱりと笑う。
そう、雨妹の先約とは野猫である。というよりも、この皇后宮でのお披露目案内は、実は野猫の件で皇后宮にちょうど用事があった雨妹に、「ついでだ」と押し付けられた面もあったりするのだ。
さて、雨妹がこうして会いに来たのは、野猫から「また会って話をしたい」と手紙を貰ったからだ。以前の相談に関してのようである。そして皇后宮の新入り洗濯係では移動の自由が少ないので、野猫よりも自由が利く雨妹が会いに行く方が時短だったわけだ。
ところで雨妹が一つ気になるのは、その野猫の手紙が妙に綺麗な文字であったことだ。
――野猫が書いた手紙だとは思えないんだよねぇ。
なんと言っても口減らしに売られるような家庭環境であった野猫であるので、字が書けるとは思えないし、読み書きの勉強を始めたとしてもまだヨレヨレ文字であるはずだ。加えて手紙の内容には、一般庶民では使わないであろう言い回しもあった。誰かに代筆を頼んだとしても、明らかに同じ洗濯係仲間が書いたのではない。
であれば、野猫のもう一つの伝手である皇后の線が濃厚だ。
しかし皇后がお付きの誰かに命じてあげたにしても、書き始めの時候の挨拶から始まる丁寧な手紙であった。皇后付きの女官なり宮女なりが、新入り洗濯係の手紙をあれ程親身に丁寧に書くだろうか? 皇后宮の人たちはその辺りの気位が高そうなのに。
そうなると考えられるのは一つ。皇后自身が字の読み書きができる可能性だ。これは驚きの発見であり、すなわち皇后が後宮の妃候補としての媛様育ちではないということである。
――いや、これについては深く考えないようにしよう。
雨妹はスンとして余計な思考を飲み込む。今はそう、野猫の相談だ。
「それで、話が進展したけれど問題があるんだって?」
洗濯物をひとまず傍らに除けている野猫の近くにある、おそらく普段椅子代わりに使われているのであろう大きめの石が並んでいる一つに、雨妹は腰かけて話しかけた。
「そうなんだよ!」
こちらも石に座りながら大きく頷いた野猫曰く、早くも噂の元衣装係――卓敏という名であるらしい彼女に話を持ち掛けたのだそうだ。医局の医者は優秀な人だと聞いたから、その人ならばその身体の不調を治してくれるかもしれない。誰とは言えないけれど、知り合いがその人に病気を治してもらったから、頼ってみる価値はあるのではないかと訴えたという。
ところが、敏は良い顔をしなかった。
『医者なんて、詐欺師なんだよやっぱり』
敏が悔しそうな顔でそう言い捨てたそうで、どうやら相当な医者不信に陥っているらしい。
――まあねぇ、症状が出た時に当然、医者に診てもらっただろうし。
雨妹には敏が医者不信になるまでの流れを、容易に推測できた。
敏が皇后宮でそこそこの立場である人である上に、皇太后が失脚したばかりの皇后宮である。皇后宮の威厳を保つためにも、下っ端が出入りする医局の医官にかかるとは思えない。皇帝の侍医派遣を要請して、敏はそちらに診てもらったのではないだろうか? けれど今の処遇から容易に推測できるが、侍医には敏の不調の理由がわからなかったのだ。
――というか、侍医って前の人から代わっていないのかな?
陳から侍医が交代したという話も聞かないので、おそらくそうなのだろう。
けれど皇帝の侍医という立場が、容易に交代できるものではないことも、また雨妹にも理解できる。家柄やら縁故やらが大いに関わってくるのであろうし、逆にそうした縁故を持っていないと、容易に権力を持っている誰かに買収されてしまう恐れがある。そうなれば暗殺危機一直線だ。
以前から居た侍医が皇太后関連で解雇されていないのだとしたら、よりマシな候補が見つかっていないということでもある。かといって、信頼できるからと医局から陳を侍医に引き抜かれては大いに困るのだ。雨妹が駄弁りに行く先が無くなってしまうではないか。




