702話 野猫の相談事
「そっちこそ、そろそろこの部屋の作業は終わるのか?」
「そうだねぇ、今日で一旦終わらせて、明日か明後日くらいにまた改めて見て、それで良しか判断だってさ」
今度は野猫が聞いてきたのに、雨妹はそう答える。
一気に作業を進めるとおかしな精神状態になっていることがたまにあり、そうなると後日作業を見て違和感を抱くことになることがしばしば発生する。それを防ぐために、決定を後日改めてやるのだ。
――特に今回は皆、ちょっと興奮気味だもんね。
班長たちも自身が冷静ではない自覚があるらしいので、一旦落ち着かないと現実的な判断ができないと理解しているのだ。
「けどまぁ、こういう仕事は滅多にないから楽しいよねぇ」
雨妹がわちゃわちゃしている室内を眺めて言うのに、野猫が「わはは」と笑った。
「雨妹は変な奴なんだな。あんな偉い医者の手伝いができるのに、仕事は掃除だなんて!」
野猫がそう言ってきたが、これを改めて面と向かって言われるのがいっそ新鮮な気分である。以前はそれこそ立彬辺りから変な顔をされていたが、今では慣れたのかなにも言われない。それに陳は「正式に助手にならないか」なんて勧めもしないので、実に雨妹のことをわかっているというか、付き合いやすくて助かる。
「陳先生の手伝いは成り行きで、掃除は趣味と実益を兼ねているの!」
「難しい言い方をするなぁ」
雨妹がそう言い聞かせるのに、野猫は良くわかっていないように首を捻っていたが、ふと思いついたように眉間に皺を寄せた。
「なぁ、そういえばさ。医者に相談するのって金が要るか?」
そしてそんなことを問われて、雨妹も首を捻ってしまう。
「陳先生は相談料なんて取らないって。なに野猫、お腹でも壊したの?」
そうは言っても、雨妹の偏見だが野猫は拾い食いしても平気そうな腹を持っている気がするし、病気も避けて通りそうに思う。雨妹にとって野猫はまさに野生の猫の印象なのだ。
雨妹に問い返された野猫が首をフルフルと横に振った。
「おらじゃねぇ。親切な人がいるんだがな、その人がなんだか気の毒なんだぁ」
「ほう、親切ねぇ」
これまた偏見であるが、その人はこれまでの皇后宮で、さぞや生きにくかったことだろう。それにしても、野猫は皇后宮で困った人を良く引っかける娘である。
「どういう人なの?」
「それがなぁ……」
雨妹に問われて野猫が語るには、その相手は最近井戸端でよく一緒になるのだが、実は以前は衣装係としてすごい仕事をしていた人なのだと、別の洗濯係から聞かされたという。
「皇后様の服を良い匂いにする仕事なんだってさ」
「ほうほう、それは大事なお役目だねぇ」
偉い人から良い匂いがするのは、それだけで格式を示すものなのだ。
その人が扱う匂いは皇后からも信頼が厚く、あの元次席女官の馬ですらもその人事に口出しできない程であったらしい。ところがそれがある日、事件が起きる。
「皇后様の服を、すごく臭くしてしまったんだとさ」
皇后の衣装に付けてしまった強烈な刺激臭は洗っても取れず、結果その匂いのせいで廃棄する羽目になる。その匂いをつけたその人の責任問題となり、衣装係から洗濯係へ降格処分が下って、野猫の隣で洗濯することになったのだ。
「それを『わざとだったんだ』とか言う嫌な奴もいるけれど、そんなことをしそうにない人なんだぞ? でもその時に自分じゃあなにも言わないから、事情がわからずに誰も庇えなかったんだって」
それに左遷されたにもかかわらず、不満一つ言わずに真面目に洗濯をしているらしい。けれど元は凄く偉い人だったわけで、他の洗濯係は遠巻きにしており、隣に居座る図太いのは野猫くらいだとか。
「あまりしゃべらない人だけれど、服に詳しくて、たまに布のことを教えてくれるんだぞ!」
野猫が前のめりに言ってくるが、なるほど、彼女がその人に懐いているというのは良くわかる。
「なあ、そういう風な病気ってあるかなぁ?」
「う~ん、そうだなぁ」
野猫が眉をへにょっとさせて聞くのに、雨妹は唸る。




