698話 今夜は中秋節
今夜は中秋節の夜である、その日の午後。
雨妹は差し入れを持って医局を訪ねていた。
「陳先生、月餅のお裾分けで~す」
「お~、来い来い!」
雨妹が勝手知ったるという風に医局に入って声を掛ければ、奥の部屋から陳の声が返ってくる。そちらに向かえば、陳は部屋で床に大量の葉っぱをばらまいて仕分けしている最中だった。
「これは、胡枝子の葉ですか?」
「おお、よくわかったな」
雨妹が葉っぱの正体に気付いたことに、陳は感心したように葉っぱから顔を上げた。
胡枝子とは萩のことだ。萩は雨妹が前世で子どもの頃によく通る公園に植わっていたもので、小さな花が枝を重たくするくらいに沢山咲いて、その下を潜るのがまるで花の隧道を通るみたいで好きだった。萩は秋の七草に数えられるものでもあり、生薬としても優秀だし、なにより萩の花が咲くとはすなわち、おはぎの季節でもある。食べ物と直結する記憶は鮮明になるものなのだ。
その萩の葉っぱで埋め尽くされた床を、雨妹は足を置く場所を選びながら陳の近くへと歩いていく。
「ずいぶんたくさんありますね」
「仕分けを手伝うなら、茶にするくらいの葉を分けてやるぞ?」
「つまり、手伝ってほしいんですね」
胸を張る陳に雨妹は苦笑してから、葉っぱの状態の良し悪しを分けるのを手伝う。一番いいのを薬にして、少し劣化しているのをお茶にして、使えそうにないものは肥料行きであるそうだ。それにしてもいつも陳が仕入れる薬の素材が大量になってしまうのは、後宮全体を診る医局という場所柄であろう。
こうして作業をしている部屋の壁には、以前は見なかった立派な紙にしたためられた達筆な書が飾られている。
「やっぱり目立ちますね、アレ」
雨妹は視線で指し示しながらそんな風に言えば、陳も視線をやって「やれやれ」と息を吐く。
「これまで寄り付きもしなかった連中が、ちょっとした怪我を理由にアレを見学に来るな。医者が忙しいのは良い事なのか、悪い事なのか」
そのように愚痴る陳は、その口調とは裏腹にまんざらでもない顔である。
飾られた書とは、陳の仕事ぶりを褒め称えている内容であり、最後に「劉志偉」という署名があった。つまり皇帝直筆のお褒めの言葉であり、この書は大きめの賞状といったところか。
この賞状は、雨妹が父との面談で「陳への褒美も考慮してほしい」と願った、その答えであった。皇帝と会って直にお褒めの言葉を貰うのも栄誉であるかもしれないが、賞状だと後世に褒められた事実が残るため、陳の立派さを伝えるいい褒美なのではないだろうか?
その賞状を貰う理由の一つが皇后の診察なのだが、陳は今も定期的に皇后宮を訪ねて皇后を診ている。
「皇后陛下の具合はその後どうですか? お元気になりました?」
「うぅむ、そうさなぁ」
雨妹が軽い調子で尋ねたのに、陳はなんとも言えない顔で手元をじっと見て、しばし沈黙する。患者の情報は個人情報なので、話せない時はきっぱりとそう言う陳であるのに、このような反応は珍しいことだ。
「なにか困ったことでもありましたか?」
心配そうにする雨妹に、陳は「えっへん」と咳払いをした。
「いいや、なにもないよ。皇后陛下の大麻の症状は軽いものであった。代わりに煙の害が酷かったのも、まあ想定した通りだ」
そう話す陳によれば、皇后の次席女官である馬から大麻香を使われていたことによる酩酊症状は、すぐに出なくなったらしい。一方で香の煙による害が長引いているそうで、特に痰が絡む症状が残っているらしい。痰は肺炎に繋がるので楽観視はできないので、いつもならば痰切りのための薬でも処方するところなのだろうが。
「ただ、薬を出せぬので、長引きそうでなぁ。菊祭りまでにいくらか改善できると良いが」
悩ましそうな陳の様子に、雨妹は目を瞬かせる。
「あれ、お薬を出さないんですか?」
痰は薬を飲めば比較的早くに良くなる症状であろうにと、雨妹は不思議に思う。




