691話 無知の恐ろしさ
「使用されたその大麻香とやらは、元々は従妹が使っていたとの供述が取れた。まあその従妹は処罰されて既に百花宮にはいないがな。その従妹の荷物をなんらかの手段で手に入れ、利用できると考えたのだろう」
そう語る謎曰く、馬の大麻香についての認識は「他者に言うことを聞かせる道具」というものだったそうだ。従姉が残した書きつけのおかげで、馬は自分でも仕入れることができていたものの、それの詳細はよく知らないままであったという。暗示をかけるのであれば、自らにも作用するとは考えもしなかったのか。
この無知のままに使えてしまうことが、麻薬の類の怖さであろう。
「知識もなく思い込みで扱うとは、なんと恐ろしいことか」
同じ思いに至った燕女史が恐怖する顔をしているが、一方で雨妹には昨日からの不可解さが増えてしまう。
――それって、元は燕家の道士から大麻香を扱っていたんじゃないの?
皇后宮の元筆頭女官の従妹が使う大麻香が、皇太后宮から流れて来た可能性は大である。それがいつからか手に入らなくなったので、大麻香の効果を手放せなくなっていた従妹が粗悪品に手を伸ばしたとしたならばどうだろうか?
けどまあこれも今答えが出るようなものではないので、雨妹は一旦飲み込んで置く。
「なんにせよ、馬当人からはこれ以上の情報は出ない可能性が高いか」
謎がそう言って肩を落とすのに、雨妹は一応告げておく
「大麻香の離脱症状で、これからもっと話が通じなくなるかもしれません。突然暴れ出すことには気を付けてくださいね」
「ああ、注意しておこう」
謎とそう言葉を交わしたところで、雨妹たちの刑部での用事は済んだのだが。
刑部まで足を運んだ労賃として、雨妹たちには休憩のために用意された部屋でのおやつとして、刻んだ干し杏の入った豆沙包、杏風味のあんまんを出された。
「お~いし~い!」
「本当に、知らない相手から甘味を出されてついていくなよ?」
早速かぶりつき、美味しい甘味にホクホク顔の雨妹に、立彬がお茶を淹れてくれながらも若干心配そうに呆れている。
「ふふっ、美味しいものを美味しく食べられるのが、雨妹の美点であるな」
けれど燕女史は褒めてくれたので、雨妹は褒められた方だけを覚えておきたい。
しばし三人で杏風味あんまんをモグモグするのだけれど。燕女史は持ち帰ってこの場では食べないのかと思いきや、雨妹に付き合って一緒に食べるのだから気さくな人である。そこでふと雨妹は燕女史に尋ねた。
「燕女史、あれから燕淑妃と仲良くしていますか?」
昨日のあの後一周回って姉妹の中が気まずくなっていたらどうしようと思ったのだが、そんな雨妹の懸念を燕女史がカラリと笑う。
「今朝、朝食を共にしたよ。妹妹が朝の支度に来る宮女よりも早起きして、わたくしを待っていたのだ」
「きっと燕女史が逃げないように、見張っておられるのではないですか?」
「そうかもしれぬ。ではな」
そんな軽口を交わしてから、おやつを食べてしまった燕女史は部屋を出ていく。きっと宮での仕事が待っているのだろう。
「お疲れ様でした!」
雨妹がその後姿に声をかける隣で、立彬が大きく息を吐いた。
「あのお人に軽口を叩けるとは、お前は本当に怖いもの知らずなことよ」
立彬にとって、燕女史は緊張する相手であるらしい。太子の側近である立彬の方が身分は上だろうが、燕女史の方が経験も迫力も格上であるので、萎縮してしまうのも無理はない。
「私だって、燕女史は偉い人だし引き締まる空気を持っているとも思いますが。なにせ、出会いがアレでしたので……」
雨妹はそう言って苦笑する。燕女史も己の弱り目を診られてしまった相手なので、雨妹相手には多少警戒心を緩めてくれているのだろう。
なんにせよ、刑部での用事が終わったのならば、次に王美人の屋敷に向かわねばならないのだが、もう父は待っているのだろうか?
――いや、王美人と楽しくお茶しているか。
待ち時間はすなわち王美人との癒し時間なのだから、父にとってはなにも損はないというわけである。
念のために立彬が王美人の屋敷まで送ってくれたが、屋敷の門の横には既に質素な外見ながらも頑丈そうな軒車が横付けされていた。やはり、父はすでに屋敷に入っているようだ。
太子の側近が皇帝の妃嬪に近付くのは外聞的によろしくないので、立彬とはここでお別れだ。
「送っていただき、ありがとうございます!」
「……上手くやるのだぞ」
これから皇帝相手への報告会が待っていると立彬もわかっているのだろう、声援と共に雨妹が門に入るのを見守ってくれた。




