678話 燕淑妃の話
「そんなこともありましたね」
燕淑妃に言われて雨妹は懐かしい気持ちになったが、これも思えばつい数日前の事である。ここ数日がいかに濃い時間であったかという証拠であろう。
「それはどういうことか?」
すると燕女史はこの話が初耳なのか、不可解そうな顔で燕淑妃と雨妹を見比べている。この話をしたのは医局での内緒話の最中なので、燕淑妃が燕女史に話せていないのも当然だろう。こちらもまた当然知らない立彬も、「お前はまたなにをしたのか?」という渋い顔をしているのだが。
――しまった、後で叱られる案件が増えた!?
雨妹は薮蛇だったと冷や汗をかいたが、内心をなんとか押し込め、燕淑妃に向かって微笑みながら告げる。
「私の些細な言葉が、お役に立てたのならば嬉しいです」
燕淑妃の方は思い出し笑いをして心が微かにでも軽くなったのか、勇気を出してさらに語っていく。
「わたくしが行動しようと心を決めたきっかけは、愛する美しく賢い姐姐が、燕家のさる長老の情婦になるように命じられたことでした」
「うぇっ!?」
話がいきなりの昼ドラ的急展開したことに、雨妹は思わず妙な悲鳴が出てしまうし、立彬や陳すらも軽く目を見張っている。
政略結婚という行為は位の高い家にはあることだろうが、命じられたのが情婦で、しかも長老ということは相手は老人であろう。それはなんとも見下された命令である。
「わたくしにその話を囁く者は皆、様々な下世話な内容で姐姐を貶めました。それまで姐姐を褒め称えていた者たち、全てが! これはきっと、なにか大きな力が働いたのだと考えるのが自然です」
「それはそうですね」
雨妹はうんうんと相槌を打つ。
それについて燕淑妃が噂を辿れば、聞こえてきたのは燕家の長老たちが発する道士に対する不満であった。もっと道士たちを意のままに動かしたいのに、道士を導く立場の者らが動かないためままならない。その動かぬ道士らが最も目をかけていた存在が、姉である。
「道士たちを従わせるための人質として、姐姐を利用しようというのです」
燕淑妃は怒りを堪えるために、手を握り締める。
――あれ、燕家の主流派は道士と仲良くないのかな?
雨妹にそんな疑問が浮かんだものの、燕女史に「質問は後で」と言った手前、今はそれを飲み込んでおく。
燕淑妃の話は続く。
「姐姐はいずれ道士を率いる存在になるとされた希望なのです。それを横暴な手段で奪おうだなんて、わたくしはどうしても我慢ならなかった!」
それならば、姉を里から出して逃がす選択をしようにも、きっと長老から一家の親類までもに厳しい仕返しが為されることだろう。それになにより、姉は誰かが犠牲になる手に頷くはずもない。そんな状況で、父母は打つ手なしと諦めようとしていた。
「ですからわたくしの愛しい姐姐を、わたくしが守らなければならなかった!」
これまで努めて静かに言葉を紡いできた燕淑妃が、途端に声と肩を震わせた。
「ですが決意をしたところで、どうすればいいのかわからなかった時、その話が聞こえてきました。宮城が、燕家に四夫人の座を埋める妃を出すように求めているというのです」
その話を持ってきたのが、郭比であった。郭比は昔から姉妹の護衛のようなことをしており、二人にとって姉のような存在だという。
「わたくしは、この話を天啓だと感じました」
燕淑妃曰く、姉を後宮の妃にしてしまえば情婦になどなれないと、そういうことだ。けれどそうなれば、姉は道士として仲間と共に修行に励むことはできなくなる。だが長老の元で人質となり、名目通りに情婦の扱いをされるよりも、後宮の妃、それも乞われて四夫人の座に就くとなれば、その立場を尊重してもらえるだろう。好きな事だって――道士の修行だってできるのではないか? それに姉ならば、きっと立派な四夫人になれると、そう考えたそうだ。
けれど当時の燕淑妃には当然ながら、その話を燕家の中で通す権力などあるはずもなかった。
「ならば、皇帝陛下の方から姐姐が欲しいと言って貰えばいいと、そう思ったのです」
燕淑妃がそう言い切った。雨妹としては言いたいことはわかるが、発想が飛躍し過ぎというか、無礼を恐れない無鉄砲さである。
「なんという、畏れ多いことを……」
皇帝を利用しようと考えた妹に、燕女史が顔色を青くしている。




