675話 油断したようです
「皇帝陛下からも皇后陛下からも信頼の厚い燕淑妃の筆頭女官殿が、働き過ぎなのは心配ですね」
「実に実に。我が上司は休むことが下手ですな」
立彬が生真面目そうに言うと、郭比もすかさず同意する。
このように目の前で繰り広げられる会話劇に、燕女史は目を白黒させるばかりであったのだが。
「なんだ――いや、まさか!?」
やがてようやく気付いたように、ハッとして雨妹を見た。
「雨妹、これはお前の仕業か!?」
「さて、なんのことでございましょう?」
燕女史の追及に、雨妹は堂々とそらっとぼける。それにしても気付くのがいささか遅いが、驚き過ぎて思考が止まっていたのかもしれない。
そう、指摘された通り、ここまでの流れは雨妹が事前に仕込んだのだ。
雨妹は事前に郭比を挟んで燕淑妃と相談した。皇后宮訪問の際に燕女史と陳が顔を合わせるというこの絶好の機会を生かして、燕女史を診察する気にさせてしまえないかと。こうして燕淑妃と一緒になって作戦を考えていた雨妹は、ふと閃いたのだ。前世ではどんな病院嫌いであっても、医者にかからなければならない状況というものが存在したではないかと。
それは、会社で義務付けられていた健康診断である。
医局の医師の診察を受け、宮の者たちに「医者にかかるのは良い事である」と手本を示す。こういう建前があれば、燕女史は逃げ辛いのではないかというのが、雨妹の作戦だった。けれどそれにまんまと引っ掛かるなんて、燕女史も逃げ回っていた割に油断したものだ。雨妹の存在を軽く見積もっていたのが敗因か。
燕女史は雨妹と陳から再診を促されたことを、忘れていたわけではないのだろう。けれど雨妹とは結構な頻度で顔を合わせていたのに、一度雨妹から促して以降、そういう話題を一切しなかった。だから燕女史も「雨妹も陳も、所詮他人事であるのだ」と気を抜いてしまったのだ。まさに油断大敵である。
『燕淑妃には姉を説得する妹ではなく、部下に命じる上司の顔をしていてほしい』
雨妹が燕淑妃に求めたのはこの一点である。あくまでこれは仕事として命じるのだと、その姿勢を貫けば、真面目な燕女史も逃げることができまい。本来は気弱な燕淑妃は会話がグズグズであっても、この条件だけは必死に守ろうとしている。
「これは――」
「宮の主と筆頭女官というお二方が行動して手本を示すのは素晴らしい。明賢様も見習いたいと心打たれることでしょう」
燕女史がなにか言おうとしたのと同時に、立彬が会話に横入りして雨妹に助け船を出す。結果燕女史は立彬に押し負けて、発言は飲み込まれてしまう。無礼を恐れずこれができるのも、立彬であるからだ。
「ええ、この宮で働く者らこそが、宮の財産ですから。彼らが健康に過ごすことは大変重要です」
「おおなんと、そのお言葉を聞けばきっと皆が感激して涙することでしょうぞ!」
燕淑妃が重々しく述べるのに、郭比も視線を巡らせれば、隅に控えていた宮女たちがそっと涙を拭うような仕草をして、感極まった様子を演出している。
――皆で畳みかけるよね。
燕淑妃宮の盛大な茶番劇への熱の入れ方に、よほど今の事態を早くなんとかしたいという熱意を感じる。
「さあ、わたくしの大事な姐姐、陳先生に診察してもらいますよね?」
燕淑妃が精一杯に毅然とした態度で胸を張る。そんな妹の姿を、燕女史がどこか遠くを見る目で見る。その顔は誇らしそうであり、悔しそうであり、寂しそうでもあった。
「可愛い妹妹、わたくしのためにここまでして……」
「姐姐!」
燕女史が「ほう」と息を吐いて述べるその表情を、燕淑妃は歩み寄りの兆しと捉えたのだろう、嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「……うん?」
けれど一方で雨妹は、かすかな不安を覚えていた。今のこれが雨妹たちと燕女史とで、盛大に釦を掛け違えているような、なんの根拠もないけれどそんな予感がしたからだ。
「ちょっと待って――」
「姐姐、ですから――!」
雨妹が姉妹の会話を一旦止めようとするのと、燕淑妃が再度懇願しようとするのに、燕女史が言葉を被せるように告げた。
「我が主よ。そうして一人で立派に立てるようになったのであれば、わたくしが隠居する時が来たということです」




