669話 報告に戻る
ひとまず雨妹たちは通路の出入り口について燕女史や呉へ報告するために、戻ることとなった。野猫はここで別れれば、洗濯仕事が待っているであろう。いくら皇后宮が緊急事態であるとはいえ、それで洗濯物は消えてはくれないのである。
しかし野猫は皇后にもう会えないかもしれない問題をまだ引きずっており、雑草を蹴散らしながらもトボトボと歩くその後姿に哀愁が漂う。
「元気出しなって、きっと皇后様にまた会えるよ!」
雨妹の慰めの言葉に、野猫が涙目でキッと振り返る。
「嘘だったら承知しねぇぞ!?」
噛みつくように叫んだかと思ったら、振り切るようにして井戸へと戻っていった。
「全く騒々しい、なるほど猫だ。しかも飼い猫ではない」
「どこか憎めないんですよねぇ」
雨妹は立彬と野猫の後姿を見送りつつ、そう言い合う。
しかしながら、たとえあの野猫が皇后の傍に侍ることができる身分になれたとしても、それで彼女が上品な振舞を身に着けてしまったら、皇后は逆にがっかりする気がする。野猫はああやって自由なままであるのが、皇后には好ましいのではないだろうか? しかしあの自由な野猫だと、皇后付きになるには難しいわけで。一体どうやれば野猫と皇后は会えるようになるのかと、雨妹は思案する。
――あれか、前世の猫ドアみたいに、野猫専用の戸でもどこかに作るとか?
そんな妙なことを考えたところで、雨妹たちは燕女史を探す。
燕女史は呉の所へ向かい、呉は皇后の傍にいるはずなので、つまり皇后の居所を調べれば燕女史がいるということだ。なので皇后宮の見張りをしている皇帝一行の者へ状況を聞けば、皇后は寝所から出て移動したそうだ。
ちなみに父はというと、既に皇后宮を出て、連絡役としてお付きの宦官を一人呉の元へ残してあるそうだ。
――まあね、いつまでもここに居るわけにはいかないもんね。
皇帝がいることで、人員が逆に気を使って迅速に動けないという場合もあるので、その辺りの空気を読んだのだろう。
というわけで、雨妹たちは燕女史がいるであろう皇后の元へと向かうと、あちらこちらの通路に皇帝一行の者が見張りに立っており、通行を規制していた。
しかしこの期に及んで見張りに皇后宮の者がいないあたり、皇后宮にとってはなかなか恥ずかしい事態であろう。けれど信用できる者は色々忙しくて表に出て来られない説が、これで雨妹の中で濃厚となった。きっと皇后宮を最低限機能させることで手一杯なのだろう。
野猫の洗濯もそういう仕事の一つであり、野猫の上司は今頃この騒動のせいで仕事にならないことに泣いているかもしれない。洗濯ほど、洗って干して畳むという時間管理に厳しい仕事はないのだ。
そのように皇后宮を観察しながら雨妹が進めば、見張りには申し送りがされていたのか、立彬と共に奥へと通される。どうやら皇后は寝所があった建物とは別の建物にいるようだ。やはり呉も、人が通れる穴が開いているという安全面を問題視したのだろう。
そして到着した皇后がいるという部屋の、扉前に居るこれまた父が残していった宦官に話を通せば、部屋の中とのやり取りの後に入室の許可が出た。
「皇后陛下には再び目通りいたします」
入室するなり皇后への挨拶を慣れた仕草で行う立彬の影で、雨妹もそのしぐさの真似をする。
すると皇后は衝立を挟んだ向こうにいた。燕女史と陳はその衝立の外に待機しており、呉は衝立の向こうで皇后に付いているのだろう。現在軽食を用意させているようで、料理が衝立の向こうに運ばれていく。雨妹は衝立のおかげで、皇后と顔を合わせずに済むことにホッとする。
それにしても、皇后は建物間の移動は輿に乗ったのかもしれないが、起きて移動できる体力は残していたらしい。
――あちらの思惑に乗って寝所に籠っていたのは、弱っていると演出していたのかもね。
馬の策に嵌っていると思わせておけば、今以上に状況が悪くなることはないのだから、有効な手ではある。問題はそこから救いの手を伸ばす場所を作っていなかったことだ。野猫が運ぶ井戸水や食物を受け取るくらいなので、特に安全な飲食には本気で困っていたのだろう。
本当に野猫は奇跡みたいな隙を突いたんだな、と雨妹が考えていると。
「どうでしたか?」
燕女史に問われた立彬が、皇后にも聞こえることを意識したように答える。
「は、皇后宮でも外れの方にある井戸からさらに外れた辺りに、通路の出入り口を確認しました。穴を守る扉などはなく、皇后陛下が現在ご無事であることに安堵しているところでございます」
立彬は「あの雑な穴の塞ぎ方でよくこれまで無事だったな?」という意見を、丁寧ないい方に直してみせた。




