667話 思いもよらない
皇后という身分であれば、自身の「皇后派」を持っていて良さそうなものなのに、それの存在を聞かない。おそらく皇太后に許されなかったのだ。派閥を持たせて、万が一それが皇太后の力を凌ぐものに成長する可能性を恐れたのだろう。
逆に馬がこうまでも上手くやれていたのは、皇太后派残党の心理を上手く突いたからだと考えられる。自分は皇太后の言葉を伝えるだけの存在であり、「皇太后陛下は今でも我らを見守っている」という宗教の常套句を用いれば、皇太后を信じる者が付いてきたのだろう。
そしてかつての皇后にとって馬とは、敵やら味方やら以前に、気を配る必要もないその他大勢の一人だったのだろう。そうして軽んじていた相手が自分を罠にかけるなど、想像もしていなかったのだ。
――人事の隙を突かれた形でもあるか。
皇后宮には新たな筆頭女官として呉を送り込んだが、皇后とてその呉がどれくらい信頼できるものなのか、それとも敵なのか、わからない内にあれこれと話せるはずもない。なにしろ「宮荒らし」という異名持ちな女官であるので、即大歓迎できないのもわかる。
呉が皇后とそれなりにやり取りができるようになれば、あるいはこのような事態になっていなかったのかもしれない。そこを馬も懸念して、皇后と呉が上手く人間関係を築かれるのは良くないと思い、徹底的に邪魔したのだろう。情報を伝言でやり取りする以上、皇后と呉をすれ違わせるなんて容易だったはずだ。
皇后宮の影響が他の宮にまで出なかったのは、それこそ呉の手腕だったのだろう。でなければ、「皇太后教」はもっと広く配下を得ていたかもしれない。花の宴からこちら、処罰対象というほどではなくとも、良い思いが出来なくなった人はそれなりにいるはず。そういう者たちに「皇太后教」は刺さるだろうし、そこから皇太后を後宮に戻すための運動に繋がっても不思議ではないのだ。
その点から考えるに、父が呉に命じた「宮荒らし」の対象は皇后宮ではなく、「皇太后教」だったわけだ。雨妹が目撃した衆目の面前での説教大会も、宗教を相手にしての戦いだと考えれば、過剰な対応だとは言えなくなる。皇太后の存在を懐かしむ声が下っ端の中では聞かれないので、今の所そこは上手く行っているのだろう。
――ほとんどが出世したり、住まいが良くなったり、いいことが起きているもんね。
宮城の外でも、後宮の建物再建作業でそれなりに景気がいいと聞く。しかもそれは今まで皇太后の筋からは外れていた建設業界が賑わっているので、結果その下働きをしている一般庶民の景気が良く、金の流れが循環しているのである。
つまり、庶民に今更皇太后は必要ないわけだ。
そうであるならば今、孤独を抱えることになってしまった皇后も、ここからの巻き返しを期待したい。なにより、それが皇帝の計画なのだから。
「皇后陛下には早く元気になってもらって、お味方を作ってもらいたいですね」
「まあ、そうであるな」
雨妹があえて明るい声で言うのに、立彬も気を取り直す大きく息を吐いてから頷く。
「手っ取り早く人気を集めるには、物で釣るとか?」
「皇后陛下ならば、酒宴を大々的に開くのではないか」
「あ~、ありそうですねぇ」
雨妹と立彬は雑な穴が開いていた衝撃から気持ちを立て直そうと、そんな余計なお世話的な若干失礼なことを言い合っていたのだが。
「なに言ってんだ、おめぇら」
その衝撃理由の一つである野猫が、雨妹たちのやり取りを聞いてジトリとした目を向けてきた。
「皇后さまは酒嫌いだぞ?」
「はい……?」
雨妹は一瞬、なにを言われたのかわからなかった。それは立彬も同様のようで、珍しくポカンとした顔をしている。
それも道理で、皇后の酒宴好きは後宮の上層部で有名な事実であり、つい先日の雨妹はあの居酒屋とホストクラブが混ざったような酒宴会場のひとつを解体したばかりだった。最近はその酒宴も開かれていないのが以前は不思議だったが、今ではそれも大麻香による体調不良のせいだったのかと、雨妹は考えていたのだが。
――酒嫌いだって?
ここにきてなんと、思いもよらない話が急浮上した。




