663話 野猫の冒険
そんなわけで、野猫は洗濯なんてすっかり忘れて穴に潜ってみたという。けれどずうっと真っ暗で、進むのもそろそろ飽きたから戻ろうかと思った時、変化が起きた。
「ズゴーン! って頭がなにかに当たって、ちょっと明るくなったんだぁ」
それはつまり、本来は行き止まりだったところに、野猫が頭突きして穴をあけてしまったのだ。けれど明るさは感じるが、前に蓋がしてあるように障害物があった。どうやらこちら側もあの崩れた石同様に蓋がしてあるのかと思った野猫は、押したり引いたりしているとその蓋が横に動く。
こうして抜けた先が、皇后の寝所だったというわけである。
「それで、皇后陛下にお会いしたのか?」
「いや、それからが大変でさぁ」
謎が確認するのに、野猫が気持ちを表そうと両手をわたわたとさせた。
その開いた出口から野猫が出て見れば、そこは窓の鎧戸が閉まっていて、天井付近の明かり取りからしか光が差し込まない、薄暗い室内だったという。
「おまけに部屋の中が妙に煙いし、火事だと思ったんだぁ」
これはいけないと、野猫は慌てて火元を探すけれど見つからない。火はなくて煙だけがある妙な火事だと思ったそうだ。どうやら野猫は、香や香炉というものの存在を知らなかったらしい。
それでもとにかく、風で煙を飛ばそうとしたのだけれど、問題が発生する。
「扉も開かねぇし、窓に嵌っている板が外れねぇんだよ」
困った顔で野猫が言う。
窓に鎧戸が閉じたまま固定されていて、これでは風を入れられないと困ってしまった野猫はその時、ふと微かな風を感じたという。閉め切られた室内に何故、風が吹いているのか? 風が来る先を辿れば、吹いているのは野猫が通って来た穴だった。自分が来た穴が唯一、外に繋がっていたのだ。
そこから野猫はもっと風を入れようと、穴を塞いでいた蓋だと思っていた棚を動かし、小さかった穴の出入り口を蹴りつけて壊して広げると、そこから吹く風を手伝うように、手に持っているままであった捕まえた洗濯物を振り回したところ、だんだんと煙が流れて薄くなってきたという。おそらくは香炉の中身も燃え尽きる寸前だったのだろう。
これで火事の心配はなくなっただろうと、野猫が安堵していたところ、部屋のどこからか人の声が聞こえた気がしたそうだ。その時になって野猫は初めて、この部屋に人がいたことを知ったのである。
「いやぁ、あの時はびっくりしたなぁ! 幽霊かと思ったさぁ」
のほほんと語る野猫だが、皇后の寝所の壁を破壊するのは普通に処罰される案件である。知らなかったとはいえ、恐ろしいことをしたものだ。それ以前に頭突きで壁に穴を開けたなんて、どれだけ石頭なのだろうか?
――もしくは、わざと壊れやすく壁が作られていたとか?
その穴がいざという時の脱出通路ならば、壁は穴を隠すためだけのもので、脱出の際に手間がかからないように、わざと脆くしてあった可能性もある。狭い穴ならば、通るのは宮の主当人ではなく、お付きの者に助けを呼ばせるためのものだったのかもしれない。外れにある井戸付近に出口があるのであれば、宮の外へ助けを求める用であったと思われる。
だがそれも長く使われず、朽ちかけていたのを野猫が発見したわけだ。
それにしても、雨妹たちが寝所に入った時、部屋の窓は固定されていなかった。皇帝一行が突然来たので、馬の一味もそこまでする時間がなかったのかもしれないし、もう皇后の味方などいないと高を括っていたかだろう。
さらに謎が話を促す。
「それからどうした?」
「誰がいるのか、確かめたさぁ」
やがて人が寝台にいることを発見した野猫は、しかしその人物が皇后だと気付かなかった。そもそも彼女は皇后の顔を見たこともなかったのだ。
しかし根が親切らしい野猫は、その人物がてっきりこの部屋で行き倒れているのかと思い、助けを呼んでこようかと提案した。だがそれに、よくわからない罵倒を浴びせられてしまったらしい。
「声に元気がないから死にかけかと思ったけど、そのくせやたら偉そうでさぁ」
その時のことを思い出したのか、「やれやれ」と言いたげな顔の野猫だが。偉そうなのは皇后なのだから当然だし、皇后側も言い分があるだろう。暗い中で知らない娘が突如寝所に湧いて出たのだから、相当驚いたに違いない。特に大麻香に毒されているところであったのならば、なおさらだ。




