660話 事情を知る唯一
「きゃあ!?」
「今度はなんなの!?」
風に乗って聞こえる女たちの悲鳴が近付いているのがわかる。刑部は既に捕り物を始めているようだ。皇后宮は皇帝一行に包囲されているため、誰であっても逃げる隙間はない。刑部にとっては犯罪者を捉まえるのが楽に違いない。
そしてしばらくそのまま待機していたのだが。
コンコン!
寝所の扉が叩かれたので、立彬がそちらを窺いに向かい、扉を微かに開けて外と短く言葉を交わして戻ってくる。
「刑部の者が話を伺いたいそうです」
立彬が父に報告するが、この場合の話を聞きたい相手とは、皇后宮の主である皇后であろう。
「ふぅむ、そうだな」
悩ましそうにする父だが、即許可を出さないのは、皇后があまりに弱っているからだろう。この姿を大勢の前に晒すのは、さすがにこれまで冷たい仲であった夫婦だとしても憚られるらしい。
「医官の意見は?」
皇帝に問われた陳が、緊張で額に冷や汗をかきながら答える。
「皇后陛下とのお話であるならば、医者として許可できません。まだ意識が戻られたばかりなのです」
「うむ、わかった」
こう言われることを想定していたのだろう、父がとくに表情を変えずに思案する。
皇后から話を聞くのが無理ならば、皇后側の事情を知る人物を連れて行くしか方法はない。では皇后宮ではなくて、皇后当人の事情を知る者とは、一体誰であろうか? そう思うと、雨妹たちの視線は自然とあの珍妙な宮女に集中する。
――まあね、この娘しかいないよね。
どういう事情かわからないが、彼女からは呉や馬よりも皇后の最近の話を聞けるかもしれない。
「……え、なんです?」
一人状況がわかっていないのは本人一人で、首が千切れるのではないか? というくらいに周囲をキョロキョロしている中で、父が彼女を指差す。
「皇后の代わりに、その妙な宮女を連れて行く」
皇帝が言えば、それは決定事項である。だがこの決定に、皇后が眉をピクリと跳ねさせた。
「皇帝陛下、その娘から話を聞く以上は許さぬ。わたくしの野猫ゆえに」
「ほぅ?」
皇后から意見された父が、本気で驚いている。皇后が本気で彼女を庇うのが意外なのだろう。
「へへっ」
一方で皇后から野猫、すなわち野生の猫と呼ばれた娘は、確かに野生児っぽさがある。けれど嬉しそうにしているが、野猫とは果たして褒め言葉だろうか?
――けどまあ、構いたくなる娘ではあるかな。
雨妹ですらそうなのだ。皇后の目には彼女の裏表のない素直さが、さぞ新鮮に映ったことだろう。偉い人たちの世界では、裏表のなさは「腹芸ができない」という欠点になってしまうのかもしれないが、そういう表舞台に立たないのであれば美点である。
「野猫、わたくしの代わりに好きに話してきなさい」
皇后から役目を任された彼女――皇后の野猫は、嬉しそうに目を細めた。
「へぇ、お任せを! う~んと馬への文句を言ってきます!」
ぐいんと逸らした胸をドン! と叩く野猫だが、その姿を皇后はジトリとした目で見る。
「だがその前に、もう少し小奇麗になりなさい」
皇后から注意された通り、野猫はここへ来るのに結構な距離のある狭い穴を這ってきたであろうがために、髪から足先まで全身土汚れにまみれており、表に出していい格好ではない。むしろ今皇帝の前に立っているのも駄目であろう。
――しょうがないなぁ。
雨妹は野猫を隅に引っ張って行くと、持っていた布で彼女を出来る限り拭ってやる。掃除係は常に汚れを拭ける布を複数枚持っておくものであり、その癖がこういう形で役に立とうとは思わなかった。最後によれていた髪をちゃんと整えてやれば、なんとか最低限見られるようになった気がする。
野猫は最初に出くわした姿がアレだったもので、少し綺麗にしてやれば案外可愛い顔をしているとは思うのだが、それよりもちょっとおめかしをした田舎者感が拭えないことに、雨妹としては親近感が湧くところである。
ちなみに髪を整えようとして上手く行かず、結果立彬にお洒落な髪に結ってもらったのだけれども。
なにはともあれ、こうして身支度を整せさせたところで、室内に呉と陳だけを残し、雨妹と立彬、燕女史は野猫を連れて皇后の寝所から出た。
「ぷはぁ~!」
部屋でずっと一言も声を発さなかった雨妹は、思わず大きく深呼吸をする。
「窒息するかと思いました」
「大袈裟な、息を止める必要がどこにある?」
生き返った心地でいた雨妹は、立彬が呆れた顔をしてきたのにムッとして言い返す。
「出来る限り気配を薄くしようと思ったら、自然と息を止めちゃうんですってば」
実はあの半狂乱の皇后が怖かった雨妹なのである。そうまでするくらいならば扉の外で待っているという選択肢もあったのだろうが、そこは野次馬が騒いで「待て」ができなかった雨妹の自業自得だということであろう。




