659話 噛み合うのが難しい
この不思議おかしい雰囲気の中、呉が彼女に告げた。
「これ、そこに座すは皇帝陛下ですよ。無礼は許されません」
言われた彼女は一瞬呆けてから、可笑しそうに頬を歪める。
「嘘つくな、皇帝陛下なんて来るわけねぇ、騙されねぇぞ!」
そう返した彼女に、雨妹は思わず笑いそうになるのを必死に堪える。
――父、嘘だと即断されていますよ。
皇后宮で皇帝を見ることはそう不思議ではないはずであるが、どれだけ父が皇后宮を避けていたかが窺えるというものだ。そして嘘認定をされた当人は特に気にしておらず、「さもあらん」という様子で黙していた。
呉と燕女史もさすがの無反応であるが、この空気に間近で巻き込まれている陳が死にそうな顔をしているのが、雨妹としては気の毒である。
このひやりとした状況の中で、彼女は背負っていた包みを降ろしてごそごそとし始めた。本当に自分のやりたいことをやり抜く娘である。
「皇后様、お水を飲みますか? 井戸水を汲んできましたよ」
彼女はそう言いながら竹筒を掲げて、にぱっと笑う。
「腹が減ったと強請って、饅頭も貰ったんです」
さらに包みをごそごそして、いっそ持っているものを全て寝台の上に載せてしまおうとする彼女に、皇后が冷えた目を向けた。
「わたくしの寝台は物置きではない」
「へぇ、知っています!」
皇后と娘の会話が噛み合っているのか謎だ。本当にどういう仲なのか、二人は仲が良いのか、雨妹にもわからなくて困る。
その噛み合わない娘に、皇后が言う。
「お前は間が悪い」
「なんかわからねぇが、すんません」
とりあえず謝る彼女に、皇后がさらに告げる。
「真実、皇帝陛下です」
「は?」
言われたことがどの話についてなのか、彼女はかなり時間をかけて考えていた。そして先程自分が笑い飛ばした件について思い出したのだろう、今度は笑えずにピキリと固まってしまう。
「……本当に?」
そしてそう尋ねた彼女がギギギ、と軋む音が聞こえそうなくらいにぎこちなく首を巡らせて椅子に座る男を見た。本日の父はいかにも皇帝な格好をしており、この格好が許されるのは皇帝ただ一人だというのに、これを嘘だと断じてしまえた彼女の思い込みの強さに感心する。
そして彼女はさあっと青い顔になったかと思ったら、寝台から離れて父の前に立つと、その場で床に這いつくばった。叩頭ではなく、全身で床にベシャッとなったのだ。
「命ばかりはお助けを!」
そして言い訳もしない、清々しいくらいに速攻の命乞いである。
――というか、皇后陛下の言うことは無条件で信じるんだな。
いかにも最下っ端のような宮女と皇后なのに、その信頼関係も不思議である。父も驚きが先立っているのか、罰するとも許すとも言えずにポカンとするばかりだ。
「お前は鈍いから駄目なのです」
「なんかすんません!」
そんな状況に付いていけない周囲を余所に、皇后が彼女を叱っている。けれど雨妹はそんな二人を見ていて、ふと一つの謎が解けた。
花の宴からこちらの期間、質が悪いとはいえ大麻香に汚染されていたであろう皇后が、何故意外にも元気なのか? それは単に皇后が頑丈なだけではないのだ。
――そうか、この娘が入ってきたあの穴のおかげか。
彼女が出てきた穴から風が吹いているので、どこか外へと続いているのだろう。建物も前世の密閉率が高い建物に比べれば、あちらこちらに隙間がある。穴から吹き込む風に乗って、煙が建物の屋根などの隙間に流れて換気できていたのだ。宮女が手に入れられる井戸水やら饅頭やらは、普段の皇后であれば到底口にするような質のものではないが、緊急時であればなんでも口にしたに違いない。
となれば、皇后の命綱であったこの娘は、一体どうやって皇后に近付けたのだろうか?
解けたらすぐにまた新たな謎ができたが、なにはともあれ、皇后以外にこの事件についての話が聞けそうな人物が出てきたのは、状況を知るのに非常に助かるところだ。どうあっても皇后は病人であるので、あまり長時間話をして無理をさせられないだろう。
――それに、そろそろだと思うんだけれど。
雨妹がそう考えた時。
「……!」
まるで示し合わせたかのように、換気のために開けてある窓の外から騒々しさが流れてきた。
「刑部が来たようですね」
呉がその騒々しさの正体を察する。
そう、教坊での阿片騒動でも刑部が皇帝の一声で乗り出してきたのだが、今回も彼らの出番というわけだ。百花宮の警邏役では馬に買収されている懸念があるため、直接犯罪者を引き取りに乗り込んできたのである。




