657話 皇后の問診
「お入りなさい」
寝所の扉が開き、呉が雨妹たちに手招きしてきた。どうやら人払いをしての用事は終わったようであり、雨妹たちが再び入室すると、皇后は起きていた。
――皇后陛下、案外頑丈なんだな。
大変な目に遭ったのだから、普通の人だと数日は寝込むものな気がするのだけれど。そこはやはり、どんな立場であっても皇后だということだろう。
けれど皇后が起きたのだから、陳はこれで問診できる。しかしつい先程あった皇后の錯乱が大麻香のせいか一酸化炭素中毒かはわからないが、その影響がまだ残っているかもしれない。そうなると、雨妹の声がまた錯乱のきっかけになるのは避けたいところだ。立彬からも「わかっているだろうな?」という視線の圧を感じる。
――わかっていますって、私はなにも言わないで空気になる!
雨妹はそう決意して、もう一度頭巾と布マスクでの覆面状態になってから、皇后の診察を再開した陳のお手伝い人形に扮することにした。陳が一瞬こちらを見て「本当になにをしているんだ、この娘は?」という疑問符でいっぱいな顔をしたものの、雨妹は笑顔で誤魔化しておく。
とにかく陳が皇后へ聞き取りをして、体調や記憶を確認していく。
「気持ちが落ち着かないことが増えていたのですね。あの香は心を落ち着かせるものであると、そう聞いていたと」
「そうだ、やがて気の病とされた」
陳の聞き取りに、皇后が短い言葉で答えていく。
その状態が続いていた皇后がやがて「これはおかしい」と思うようになった頃には、原因が大麻であれ一酸化炭素中毒であれ、意識障害を起こしてまともに起きていられなくなっていた。
「香のせいだと、気付くのが遅れた」
悔しそうに唇を噛む皇后だが、雨妹とやり合った一幕について、「夢の中で張美人に会った」という認識であるようだ。なんならそれ以前に掃除中に遭遇したことも、夢の中の出来事と思われていた。ここしばらくの皇后が、夢現の状態であったことが窺える結果である。
けれど幸い記憶の欠落などはないようであり、もしかすると今後事実と妄想をすり替えて記憶していることが発覚するかもしれないが、現時点だと重篤な問題は起きていないのは安堵した点だった。
さらに、陳が今後の治療について希望を尋ねたのだが。
「薬は飲まぬ」
それへの皇后の答えは、これだけであった。
――薬嫌いか。
雨妹は単純にそう思ったのだが、陳がどこか難しい顔をしている。
「……承知いたしました。ですが今の体調ですと薬を服用するというよりも、休息を十分に取ってしっかり食事を召し上がられる他、手段はありませんな」
医者から「治療は休んで食べるだけだ」と言われると、「その程度のことを言うだけで、なにが医者か!?」と怒る患者もいるのだが、皇后は「良い」と短く告げるだけだった。
この物分かりが良すぎる皇后の態度が、雨妹には逆に不安になってくる。しかし陳がもの言いたげなのをなんとか飲み込もうとしている顔をしているので、きっとなにか事情があるのだろう。
――ここは突っ込まないのが吉!
今の自分はお手伝い人形なのだと、まるで念仏のように唱えていた、その時。
ゴトッ!
微かにだが、どこからか物音が響いた。
――うん?
雨妹はなんの音だろうかと振り向いてきょろきょろとするが、誰もなにも動いていない。立彬にも聞こえたらしく、その音の出所を探っているがわからないようだ。建物の外の音が聞こえただけなのかと、雨妹は判断しかけたのだが。
ゴッ、ゴトトッ!
またまた物音が聞こえた。しかも今度は明らかに室内のどこからか聞こえた音だとはっきりとわかるものだ。
「全員、動かないようにしてください」
立彬が険しい表情で注意してから耳を澄ませ、物音が聞こえる場所を探っている。そしてやがて戸棚のひとつに目をつけたようで、そちらへ近付く。
「跡がある、なるほどな」
立彬が一人頷いて、その戸棚を押す。
コトコトッ!
すると戸棚が案外軽い動作で横にずれた。あの戸棚は見た目よりも軽くできているらしい。
けれど問題は、その戸棚の裏に小柄な体躯であれば這って動くのに窮屈ではない程度の穴が開いていたことだ。さらにはその穴から、包みを背負った宮女が頭を覗かせたのである。




