655話 こちらも、内緒の話
他の者は誤魔化せても、志偉には寝たふりなど通じない。案外、あの明賢付きの男は気付いていたかもしれないが。
なにはともあれ、呉が目覚めた皇后に近寄り、身を起こすのを手伝った。
「水を飲まれますか?」
呉が尋ねると頷きが返されたので、水差しから注いだ水の杯をそっと差し出している。
その様子を、志偉は黙って眺めていたのだが。
「張慧の夢を見ました」
水で喉を潤したからか、掠れが多少和らいだ声で皇后が唐突に述べた。
「あの女はいつも己を一番愛していて、腹立たしいくらいに無頓着で。面白いくらいに皇太后陛下の手のひらで踊っていたものよ――なのに、わたくしが得られない物を掴むのは、いつもあの女の方。ああ、腹立たしや」
「皇后は昔から慧にこだわり、目の敵にしておったな」
この急な昔語りに、志偉は大きく息を吐く。
志偉は慧の、飾らない素朴な言動に惹かれていた。今にして思えば、幼少期を過ごした爺婆との暮らしを、慧と過ごすひとときに写し見ていたのだと思う。愛を抱いたのは確かだったけれど、同時に妃嬪にするべきではなかったとも思う。一人の宮女を茶飲み友達にするくらいで済ませていれば、慧は死なずに生きていたかもしれない。
しかしそれでは、張雨妹と出会うこともなかった。
慧が死んでしまったと知らされた時、戦場ではない場所で、己のせいで無意味に人を死なせてしまったという事実は重かった。これ以上の死人を自ら生むことはするまいと、皇太后の権威欲から逃れ、息をひそめていた。
そんな志偉の前に現れた、嵐のような娘。戦う力と許す心を持っている、志偉にとって奇跡のような存在だ。
――雨妹は、皇后にも奇跡をもたらそうというのか。
後宮を意のままにしていた皇太后は、他人の恨みや憎しみを己の利になるように煽るのが上手い人物であった。けれど雨妹はその皇太后の糧であった恨みや憎しみを踏み越えてしまう、志偉が持っていたものとは違う強さを持っている。皇后など、己の出生に関わるもっとも重要な憎しみの根源であろうに、それを救おうなど。どこまでも皇太后の思う通りにいかない娘だ。
「ふっふ」
志偉が到着する前のこの寝所でなにが起きたのか、想像すると腹の底から笑えてくるものだから、ひょっとして皇后と出会ってから一度も見せていないかもしれない笑顔を、志偉は浮かべた。
「そなた、頭がおかしくなりましたか?」
志偉の笑顔をそう評する皇后は、気味が悪そうに肩をすぼめている。
志偉は実のところ、皇后と会話をまともに交わした記憶はない。いつだって皇太后が背後で睨みを利かせていたので、志偉の会話の相手は自然と皇太后になり、皇后は添え物になることが多かったのだ。だから皇后がどのような女であるのか、実は志偉は知っていることがあまり多くない。皇太后の意思によって皇后に据えられた、皇太后の姪。志偉の中にある皇后の事実とは、それだけだ。
けれどこの時は、もう少し会話をしてみても良いと思った。
「経緯はどうあれ、今後宮に残ったのは慧でも皇太后でもないそなた、皇后ではないか。さすれば大いに踏ん反り返っていればいいものを、なにに腹を立てているのか?」
この志偉の言葉が皇后も意外だったのだろう、驚くように目を見開いて、すぐにしかめ面になる。
「陛下にはわかりますまいよ、愛を競わねば生きられない女の悲しみなど。陛下はいつであれ、目に見えるわかりやすいものを好まれた」
「……嫌味を言うか」
「先に嫌味を仰ったのはそちらです」
皇后はそう述べてツンとした表情をしてから、しかしふと目元を和らげた。
「そう、これもまた夢の中で誰かが言ったのです。この世に捨てても良い物などありはしないのだと」




