654話 内緒の話
「憎い、ですかぁ」
これについては以前に呉からも聞かれたのだが、立彬からまでも聞かれるとは思わなかった。それだけ雨妹が皇后宮にいて平然としていることが、雨妹の身の上を察している者からすると不思議なのかもしれない。
――そんなに変かなぁ?
雨妹としてはなにかを堪えているわけではなく、いたって自然体でここにいるのだが。さて、なんと言ったものかと考えた雨妹は、一応寝所の中に聞こえないようにと扉から少々離れるために立彬を手招きする。
「なんと言えばいいか、難しいのですが」
雨妹はひそめた声で、そう前置きして話す。
「百花宮は愛を競う戦場です。誰もが好きで戦を始めたわけではなく、勝敗はあくまで結果に過ぎません。その結果に憎悪を覚えるのは、違う気がするのです」
これは以前呉に答えたものとは違う、今心にある正直な気持ちだ。
「……興味深い意見だ」
この雨妹の話は想像とは違う答えだったのだろう、立彬が微かに眉を寄せた。雨妹たちから離れている燕女史や陳は、こちらを気にしていない風を装っているものの、耳をそばだてているのであろう。
「では、負けた者はなにが足りぬと思う?」
続けて問う立彬を、雨妹は見上げて告げた。
「足りないのではなく、在り様が合わなかったのでしょう。百花宮は愛されたいと願う程に、苦しみが増す場所です」
そう、雨妹の母がそうであったように。
思うにあの母は後宮に働きに来たものの、そこがどういう場所なのかをよくわからない内に父と出会って恋をしてしまったのだろう。自分が知っている里の男女と同じように過ごして、添い遂げられると想像していたに違いない。だが、父も母のことを愛しく思ってくれていたとしても、当然里でよく見られたような男女の恋愛はできなかった。後宮を有する皇帝である以上、ただ一人の女だけを愛することは無理なのだ。おそらく母は、公主を産んで皇太后から目を付けられる以前から、なんらかの破綻をきたしていたのだろう。
さらに雨妹は語る。
「逆に愛したいと思い続けられるお人であれば、どこでなにをしていても、平穏に生きていけるでしょうね」
それは例えば、たまに訪れる皇帝とのお茶とお喋りの時間を大事に愛している、王美人のように。
雨妹が考えるに、母は後宮で幸せになりたいと願うのならば、愛する人と共に生きているという事実に満足すればよかったのだ。相手に己だけを見てほしい、己だけを愛してほしいと願うのであれば、そもそも後宮の妃になるべきではなかった。程々の働きをして外出ができるようになり、やがて下賜という形で後宮を出て誰かに嫁ぎ、皇帝でもあの明でもない平凡な相手と添い遂げれば、願いが叶ったであろうに。
逆に皇后は皇太后から、後宮で生きる女としての生き方だけを仕込まれてきたに違いない。他の妃嬪を蹴落とし、なにがなんでも未来の皇帝を己が産む。ただそれだけを命じられて後宮で生きてきたのだろう。
ありきたりな恋物語を望む女と、皇帝の母となることを望む女。この両者がぶつかってしまった瞬間、誰の心にも傷しか残さない不幸が生じてしまった。
――皇后陛下も、板挟みで苦しかったのかな?
皇太后からは「皇帝の愛を得よ」と圧をかけられ、皇太后の駒として、皇太后が望む振る舞いをしなければ後宮で生きられない。
誰も彼も愛し愛されたいという、ただそれだけのことなのに、それがすごく難しい。けれど案外、それが総じて人生というものなのかもしれない。
「……なるほど、そうかもしれぬ」
この意見をじっくりと考える風であった立彬が、雨妹を見て目を細めた。
***
ところで雨妹たちが外に出されたその時、扉の内側はというと。
志偉は椅子に座ったままただじっとしており、呉も黙して傍に立っていた。だがしばらくしてから、ふいに志偉は口を開く。
「どうせ、起きているのだろう?」
この言葉に、しかし寝台は静かなままだ。
「お前は毒も薬も効きにくい女だ、そのように育てられたのだからな。己の欲のために他人に毒を差し向けるなど、あの女はやはりどうかしている。それに付き合うそなたも、やはりどうかしているのではないか?」
「……そなたの母のやったことでしょうに。他人事のような言い草をして、腹の立つこと」
志偉の嫌味が我慢ならなくなったようで、ようやく寝台から掠れ声での反応があった。やはり、皇后は起きていたのだ。




