653話 実は、ここからが本題
後宮でも真っ当なやり方で偉くなっていく人がほとんどなのだろうが、馬みたいな人を見ていると、偉くなるのが嫌になるだろうに。雨妹の心にもどんよりとしたものが忍び込もうとしていた、その時。
「はぁ、やっと消えたか。では本来の目的である、皇后の顔を見るとするか」
気の抜けた声を上げた父が、叩頭したままの雨妹たちを見下ろした。
「皇后は命が危ういわけではないのだな?」
この問いについては、立彬が答える。
「幸いにして皇后陛下は私共が到着した際には意識がおありでしたが、お疲れになったのか眠ってしまわれました。ですがお眠りになる直前、非常に壮健なお声で、私たちの不甲斐なさを叱咤激励なさいました」
雨妹のせいで興奮しすぎた皇后の意識を強引に刈り取った、という事実を立彬がずいぶんまろやかな言い方で説明した。物は言い様とはこのことだ。
「そうか、それはなによりである」
父がそう言ってホッとした顔をした。皇后が無事であれば父は計画を修正する必要がなくなるので、ホッとしているのは真実だろう。
――うん、私も難しいことはもう考えない!
ここまでのことをしでかした馬の行動について不可思議な点はあるものの、騒動を寝所から遠ざけるという役目を雨妹たちは果たせたわけだ。ならば今後の色々は偉い人に任せて、今の結果に満足することにしよう。雨妹はそう割り切って、気持ちを切り替える。
それから皇后の寝所に雨妹たちも共に戻れば、幸い皇后はまだ寝ていた。
あれだけ部屋の外は騒がしかったのに、やはり身体が休息を求めているのだろう。これまでも寝ていたはずだが、あんな煙い状況では休めたとは言い辛く、むしろよく一酸化炭素中毒で命を危うくしなかったものだ。
――ひょっとして、誰かがこっそり換気していたのかな?
馬に逆らえはしないが、皇后を害するのには加わりたくない人物が世話役にいたのかもしれない。これは雨妹の想像でしかないが、皇后宮が悪人の巣窟ではないかもしれない事実に、雨妹はちょっとだけ温かい気持ちになれた。
「やれやれ」
部屋に入った父は、寝台の近くにあった椅子にドカリと腰を下ろす。その椅子は普段皇后が使っているのであろうが、あまり頑丈には見えない優美な意匠の椅子なので、父の重みと座った勢いでギシッと軋む音が聞こえる。皇后宮で苛々する出来事が連発したのかもしれないが、椅子に八つ当たりは止めてほしい。壊れたらもったいないではないか。
立彬と並んで壁際に立つ雨妹がジトッとした目で椅子を見る一方で、皇后に付いていた燕女史と陳が叩頭する。
「楽にせよ」
父はそう声をかけてから、寝台に横たわる皇后に視線をやった。
「皇后はどうだ?」
父の質問に、陳が身を起こして口を開く。
「は、やはり大麻香による錯乱症状がございました。再びお目覚めの際にどれ程症状が残っているのかを、改めて確認する必要があります。同時に香の焚き過ぎによる煙の害で、お身体が大変弱っておいでです。力を戻していただくには、栄養のあるお食事にて自ら立ち上がるお力を養っていただく他ありますまい」
「そうか、全ては皇后次第ということだな」
父は雨妹から聞いたのと同じ内容であると確認できたことに頷くと、じっと寝台の上の皇后を凝視している。その目がだんだんと険しくなったところで、パン!と手で膝を打った。
「皆、しばし席を外せ」
そして発せられた唐突な皇帝命令に、雨妹たちは驚きながらも素直に従い、筆頭女官である呉のみを残して扉に向かう。
――なんだかんだで、皇后陛下が心配だったのかな?
雨妹がそう思いながらそっと父の横顔を盗み見たところで、扉は閉じられた。
それからしばし皆黙して立っていると、父のボソボソと話す声が漏れ聞こえてくる。皇后が目を覚ましたのか? と雨妹が状況の拾い聞きを試みていると。
「お前は、皇后陛下を憎く思わぬか?」
ふいに隣にいる立彬が雨妹を見て、小声でそう問うてきた。この聞き方だと、今の後宮全体に関わる流れでのことを聞かれているようで、先程の錯乱した皇后とのやり取りのことを聞かれているようでもある。




