651話 大混戦の口撃戦
「お前はどういう立場でわたくしに意見するのか、身の程を知りなさい!」
「三度言うが、静かにしないか。皇后宮の女官でありながら、主である皇后陛下を気遣えぬのか?」
頭から湯気が出そうな勢いで詰る馬に、しかし立彬は冷静に切り返す。
口論は冷静さを失ったら勝ち目が遠ざかるもので、これでは明らかに立彬に分がありそうだ。それを馬も察したのだろう、相手を立彬から父へと切り替えて再び叩頭する。
「皇帝陛下、皇后陛下から身の回りについての全てを任されているのは、このわたくしでございます! あのような誰とも知れぬ余所者など、信用できるものではありません!」
怒りで背を震わせて主張する馬に、しかし父が面白そうに口の端を上げる。
「ほぉ、明賢の側近である宦官は、次席女官に見下される立場であったのか」
「太子殿下付き!?」
立彬の身分をようやく知った馬は、頭に上った血が一気に下がったようによろりと床に倒れ伏しそうになる。
「まさか、いや、そうだ。その顔に覚えがある――」
馬はやっと立彬を太子付きであると思い出したらしい。すぐにそうと気付かなかったところを見ると、皇太后がいた頃は太子の面前に頻繁に出る立場ではなかったのか。ということは、かつての筆頭女官はまた別にいたのだろう。
――競争相手が全員処分されて、他にいないから筆頭女官に出世しちゃったんだな。
そこへ呉がやってきて地位を一つ落とされてしまい、抱いていた野心が暴走したというところか。
だが雨妹は以前にも、これと似た流れで揉め事に至ったのに遭遇した覚えがある。そうだ、徐州は佳の統治者である利民の屋敷の料理人だ。あの時揉めたのも、これとほぼ同じ構図であったか。この手の揉め事はどこでも起こり得るということだろう。
そんな馬の様子を涼しい顔で見やった立彬は、これまでの会話の流れを無視して話を皇后の件に戻す。
「あまりの環境の悪さに皇后陛下のお身体を案じたのですが、偶然共に行動していた医官である陳医師が、偶然皇后宮にいらしていた燕女史にお助けいただき、皇后陛下を診察していただくことができました」
偶然を二つも重ねて言われると非常に嘘くさいが、そこはしれっとした顔で貫く立彬はさすがの度胸だ。
「医官だと!?」
医官が入り込んでいたと知った馬は、一瞬呆然としたのが見て取れる。
医局の医官は宮城が管理する人員であり、いち女官がどうこうできる立場ではない。その医官である陳が第三者の立場である燕女史の立ち合いの元での診察をしたとあれば、馬がその情報を否定するにはそれなりの根拠か権威で上書きしなければならないのだ。かつてであれば、皇太后の一言で全てがひっくり返ったであろうが、そのような強権の持ち主はもう今の後宮には存在しない。
「まさか、まさか……」
先程から馬の台詞に「まさか」が増えてきて、ただでさえ取り繕えていなかった表情が、さらに厳しいものになっていく。ここへきて、やっと自分が嵌められたことを真に理解したであろう。皇帝さえ足止めできればいいと思っていたのが、既に圧力で誤魔化せない身分の人物によって皇后の寝所への侵入を果たされていたのだから。
――まさか皇帝が囮だなんて、思わなかっただろうね。
大胆さはこちらが上だったわけで、こちらの作戦勝ちである。雨妹が内心でニヤリとしていると、父が立彬に問うてきた。
「それで、医官は皇后の身をなんと言っておるか?」
すると立彬は背後に視線を寄越してきたので、これに雨妹が答えろという合図であろう。その暗黙の指示を受け取った雨妹は、叩頭の姿勢から微かに顔を上げた。
「それについては私がお答えいたします。結論を先に申し上げるならば、皇后陛下の体調は最悪の事態ではありません。質の悪い香の影響で出た錯乱症状も見られましたが、お身体が弱っておられるのは、香を濃く焚いてあったための煙の害でしょう」
「本当に、信じられない非常識な香の焚き方をされていたものです」
雨妹の説明に、立彬が我慢ならないという様子でそう言い添える。
「なにを言うか、あれは皇后陛下がお好みだったのです!」
そこへ馬がすかさず否定の言葉を発するが、その声に先程までの勢いがない。恐らくは負けそうな気配を察して怖気づいているのだろう。怖気づくくらいならば、大それた欲をかかなければいいものをと、雨妹は呆れてしまう。




