649話 追い付かれた
「あの声、たぶん馬次席女官ですよ」
雨妹は立彬にそう告げた。雨妹も馬に会ったのは一度きりで、それも雨妹は認識されずに背景として会話に参加していたのだが、それでもこの皇后宮であのような上から目線の物言いをする人は他にいないだろう。
「もう戻ったか、早いな」
立彬が眉をひそめてそう零す。
馬は狭間の宮で足止めをされている計画だったはずなのだが。もしやなんらかの手段で、皇帝のお渡り一行の情報が耳に入ったのかもしれない。一行が皇后宮に向かっているのではと察知して、それで慌てて切り上げたのだろうか?
もう少し情報を得ようと、雨妹は部屋の外からの声に耳を澄ませる。
「誰の許しを得て、かようなことをなさっておいでなのですか!?」
「皇帝陛下が、誰の許しを必要だと申されるので? 呉筆頭女官がおられるのであれば、皇后宮内を動くのになにも問題ありますまいに」
馬のキンキン声に反論するのは、宦官のものであろう男の声だ。おそらく皇帝一行の内の誰かであろう。
「馬殿、その無礼な振舞がみっともなくてよ。まずは皇帝陛下の御前であるのだから、叩頭なさいませ」
続いて呉の声もするということは、ひょっとして父はすぐそこまで来ているのか?
「……!」
この後しばし沈黙が流れたので、馬が叩頭しているのかもしれない。
想定外に早く戻った馬を引き留めるために、父自ら立ちふさがっているのだろう。けれど、たかだか女官が皇帝にああまでも意見するなんて、皇太后がいた頃であっても無礼であり、己の命を懸けた諫言でもなければしない行為だ。その上で皇帝に噛みついてしまうのは、馬にも今己が立たされている現状がわかっているからだと思われた。
というか、馬もまさかの事態に違いない。馬は皇后のために皇帝が動くとは思っていなかったことだろう。この両者の不仲は簡単に解けるものではない。その皇帝が大行列を作って皇后に会いに来たのだから、まさに大事というか、珍事である。
「この奥は、皇后陛下の寝所でございますよ!?」
そして再び沈黙を破り、馬のキンキン声が発せられた。
「皇帝陛下が向かわれるのに、それのなにが問題なのですか?」
馬の追及を、しかし宦官の声が冷静に切り返す。彼の意見はもっともで、皇帝は皇后が宮にいるとわかって訪問しているのだ。皇后が皇帝に会えないという方が、むしろ事情説明をするべきであろう。拒むにしても、「皇帝陛下の面前に立つため、身なりを整える時間が欲しい」などの理由であればともかくとして、馬のあの勢いは、そもそも皇后宮に入られたことが悪いというように聞こえる。あれではまるで、かつての皇太后対皇帝の対立のようだ。
いや、もし馬が強めの皇太后派であったならば、ここは皇后宮であるというより、皇太后宮の一部であるという認識なのかもしれない。皇太后なら、皇帝を平気で門前払いしただろう。その延長線上で、馬にとって皇帝とは、未だに皇太后に頭の上がらない息子のままなのだとも考えられる。
それにしても、馬の声で皇后が起きるかと思いきや、よほど先程興奮して叫んだのが疲れたようで、目を覚ます様子がないのに雨妹はホッとする。今皇后が起きてしまって「張美人がいた!」と発言されてしまうとややこしいことになるので、雨妹としてはぜひこのまま寝ていて欲しい。
さて、外があのように大事であれば、雨妹たちはどうするべきか、である。
「ひとまず皇后陛下への一番の問題は取り除けましたし、今必要なのは安静でしょう。であれば、あの騒ぎをここから遠ざけた方が良い気がします」
燕女史も寝所の外の様子に耳を澄ましながら、そのように述べる。
確かに、皇后が大麻香を使用されている事実が明らかになり、皇后の体調も確認できた。雨妹と陳の任務は達成されたわけで、あとは偉い人たちの仕事である。皇后の身の周りについては呉が改めて手配するだろうし、続けて必要なのは医者の陳一人である。だが、どういう風に外の騒ぎに合流してこの寝所から離すかというのは、なかなかの難問であろう。