648話 当然、こうなる
「痛い痛い!? 立彬様、頭が割れそうです!」
雨妹はギリギリと頭蓋骨が軋む空耳が聞こえた気がして、慌てて後ろを振り返ると、眉間に深い皺を刻んだ立彬が立っていた。
「雨妹、お前は本当に、自分がなにをしたのかわかっているのか!?」
手を放さないまま、怒りも苦言も言葉にならない様子の立彬に、これは相当心配をかけたなと雨妹も察するが、しかし反省はしない。
「だって、仕方なかったんです! こうすれば、皇后陛下に気合が入るかなと思ったっていうか」
「気合いというより、血色がよくなりすぎて血管が切れるのではないかとハラハラしたがな!?」
雨妹が懸命に言い訳をすると、立彬は掴んでいる手で今度はこめかみをグリグリし出す。
「それもやめて、本当に痛いですって!? 今なら薬の幻覚が見せたってことで、起きた時に『夢にうなされていましたよ』と言っておけば、そうかなと思ってくれそうじゃないですか」
「どうしてそうも楽観的に考えられるのか、一度頭の中を覗きたくなる!」
雨妹の言い訳に、立彬はそう叱ってくるものの、やがて大きくため息を吐くと言葉を飲み込んで黙する。この場には他人がいるので、これ以上の説教は控えるようだ。けれど後でガツンと盛大に叱られるのは、甘んじて受けようと雨妹は決意する。
「雨妹、大胆なことをしましたね。ですが良い演技でした」
そんな立彬とは対照的に、燕女史は冷静な表情でそう褒めてから、事の次第を説明してきた。
「まずは、皇后陛下が錯乱するような状況に巻き込んだことを謝罪します。皇后陛下から『雨妹がいるのか』と問われたので、あなたに挨拶だけをさせて下がらせるつもりでした」
燕女史としては、雨妹が先日に偶然遭遇したと聞いていたので、その流れでのことだと思ったらしい。皇后が雨妹の名を呼んだのも、その際に雨妹が挨拶して名乗ったのだと判断したのだとか。燕女史のその考えも無理からぬことだ。「雨妹」というのは、そう珍しい類の名前ではない。雨の日生まれの女の子には選ばれる可能性が高い名前なのだから。
だが、皇后にとって「雨妹」とは未だに特別な名前であったのだろう。
――なにしろ、皇帝陛下が名付け親だもんね。
皇后の息子である「大偉」も、皇帝の「志偉」の字を貰った名前であるが、当時の関係性からして、こちらは皇帝から与えられた名前というわけではないのだろう。それを思えば、「雨妹」を憎たらしい名前筆頭として心に刻まれていてもおかしくはない。
燕女史がその辺りの過去の事情を知らないとは思えないが、これまで皇后に「雨妹」の名を囁いた人物がいなかったので、さすがの彼女も皇后がここまで過剰反応をするとは想像していなかったのだろうか?
――もしくはわざと試したとか……いや、考えすぎか。
この場には陳もいるのだから、燕女史が雨妹の過去に無関係の医官を巻き込むような考えなしな人だとは思えないのだ。仮に燕女史が試すとすれば、陳を一旦遠ざける気がする。そうでなければ万が一の事態が起きた際、陳も連帯責任で処分されかねないのだから。
そして、その間近で巻き込まれた陳であるが。皇后の腕をとって脈を診ながら、心底呆れた顔で雨妹をたしなめた。
「なにを企んだのか知らんが、皇后陛下を興奮させ過ぎだ」
これに雨妹は真面目な顔で言い返す。
「企むだなんて人聞きの悪い! あんな生気のない顔で寝ていられるよりも、怒っていた今の方が健康的でしょう? 喜怒哀楽を表に出すのは、健康に大事なことじゃないですか」
「それにしても、加減というものがあるだろうが」
「まったくだ」
陳の意見に立彬が深く頷いており、二対一では雨妹の分が悪い。
「とにかく、皇后陛下はあのくらいお怒りになる気力がおありなのですから、錯乱症状などに負けたりはなさいませんものね!」
「全く、お前という奴は」
雨妹が話を元に戻すようにしてお説教を終わらせると、立彬が渋い顔になる。
けれど思えば、先日の雨妹と遭遇したあの時の皇后は、ちょうど大麻香が消えて影響が抜けた瞬間だったのだろう。人を呼んでも誰も来ず、仕方なしに自ら部屋を出たというところか。大麻の影響が抜けて、またおちついて会話が可能になることを願うしかない。
「けど、慣れないことをするとお腹が空きますね」
雨妹が少し気を抜いてそんなことを漏らした、その時。この部屋の外がだんだんと騒がしくなってきた。
「退きなさい、なにをしているのですか!?」
そして聞こえてきたのは、耳覚えのある声であった。どうやら馬が戻って来たようだ。




