647話 唸れ、女優心
雨妹は母がどのような人であったか、どういった言葉遣いをするのかなんて全く知らない。けれど恋愛体質の女性のことは前世でも数多く見てきたので、そんな彼女たちの平均値での言葉やしぐさを真似ることは容易である。
「お前、いつ見ても憎らしいその顔めが、今なんと言ったか!?」
皇后がそう言いながら寝台を手でガリガリと引っ掻いているが、どうやら雨妹のことがしっかりと母に見えているようだ。
雨妹はいつもよりも若干高い声の、敢えて弱々しい口調で語り掛ける。
「何度でも申しましょう。お情けなや皇后陛下、怪しき香などに惑わされるなど。そのようなか弱い女では、皇帝陛下のお隣に立つには似つかわしくないのではないですか?」
この真っ向からの嫌味が、皇后にてきめんに効いた。
「なにを!? どこの生まれとも知れないくせに、わたくしを笑うのか!?」
先程よりも生気の増した眼差しで睨みつける皇后に、雨妹はさらに微笑みを深くする。
「ふふ、どのような生まれであっても、愛されているのはわたくしですもの、お可哀想な皇后陛下」
「たかが美人の分際で、言いおったな!?」
怒鳴り散らす皇后の今の怒りは、大麻などの薬物の症状で見られるいらいらや怒りとは性質の違う、心の奥底に眠っていた感情の根源である。やはり皇后にとって、母はなによりも効く劇薬なのだ。
きっかけは大麻の錯乱症状が見せた母の幻かもしれないが、この怒りこそが皇后の心ではないのだろうか? 雨妹の母への怨讐が、皇后を奮い立たせているのだ。
――そうだ、その怒りで大麻なんて蹴散らしちゃえ!
暗い気持ちに沈んで誰かの思うがままにされているよりも、今の状態はむしろ好転していると言えはしないか? ある意味怒りとは、希望と表裏一体なのだから。腹の底から大きな声を出して、心に溜まったものを全て吐き出してしまえばいい。
「気の強さだけが取り柄のあなたが、それすら失ったならばなんとしますか。ああ、お可哀想で涙が出てしまいます、がっかりです」
「おのれ張慧、許さぬ――そうよ、誰もかれも好き勝手に言うばかり。何故わたくしがいつまでも老いぼれ女の顔色を窺わなければならない!? とっとと老衰で逝けばいいものを! わたくしこそが皇后、皇后なるぞ! 無礼者ばかりで、ああ腹が立つ!」
話が母についてだけではなく、だんだん他のことにずれていく。これまで言いたいことを堪えていたのが、その蓋が開いてしまったのだろう。
やたらに怒りをまき散らすことは良くないが、怒りを表出することも大切である。きちんと怒りを怒りとして表していないままだと、それが心労となって澱みのように奥底に溜まっていってしまう。燕女史も、皇后は気の強い人だと言っていたではないか。ならばその怒りの力は人よりも大きいはずである。
皇后は色々な事が重なって、弱った心に付け入られたのだろうが、どうか自身を思い出してほしい。皇后は誰かに都合よく動かされるなんて似合わない。せっかく皇太后がいなくなって、この世の春が来たではないか。その春を誰かに横取りされるのを許すなんて、あっていいわけがないだろう。
けれど、雨妹も皇后がそろそろ興奮が過ぎて顔が真っ赤になっているのを心配し出した、その時。
「わたくしは皇后である! 歯向かう者は皆、その首刎ねてくれよう――」
皇后が雨妹に指を突き付けた状態で、意識を失いパタリと寝台に倒れ込んだ。見れば、燕女史がすぐ横で手刀を構えていて、あれで意識を刈り取ったらしい。
「これ以上怒らせるのは、さすがに胸を危うくしそうでしたので」
燕女史が冷静にそう述べて、皇后を寝台に横たえた。その寝顔を雨妹もそっと覗けば、ずいぶんと顔色が良くて、なんならどこか爽快さすら感じさせられるものである。そう、例えば前世でカラオケボックスにて声が枯れるまでギンギンのパンクロックを歌いまくってから、爆睡した看護師仲間の寝顔に似ている気がする。
――うん、やっぱり我慢は良くないってことよね。
一人ウンウンと頷いている雨妹は、しかし突如背後から頭をガシッと掴まれた。
「こら雨妹! お前、なんということをするのだ!?」




