646話 皇后、ご乱心
本日、「百花宮のお掃除係」小説13巻の発売日です!
「張、雨妹」
皇后のかすれ声が雨妹の名を呼び、寝台の上でもがいているのを、燕女史が手を差し伸べて助ける。
「その厭わしき名を聞こうとは、生きていたのか――いや」
皇后は燕女史に助けられて身を起こしたものの、上半身をフラフラとさせて、視線を巡らせるも雨妹を見ていない。そしてなにかを振り払うように頭を振ったかと思ったら、くわっと目を見開いた。
「あああぁ~!?」
そして雄叫びとも悲鳴とも聞こえる声を上げると、燕女史を振り払ったものの身体を自分で支えられず、再び布団に身を沈ませる。それでも動こうと、もがくように両手を天井に向かって伸ばす。
「そうかあの女、戻ってきたのか、おのれ、ぬけぬけと、許さぬぞ張美人!?」
「え?」
雨妹はこの反応に驚いて、身をのけぞらせる。
燕女史が雨妹を呼んだのだから、つい一瞬前まで雨妹のことをしっかり認識できていたはずである。なのに今、突然張美人の名を叫んだのだ。
「皇后陛下、この者はただの掃除係でございますよ」
「あの女がいる!」
燕女史が穏やかな声でそう囁きかけるものの、皇后の耳には届いていない。
頭巾と布マスクのせいで、皇后から今の雨妹は目元しか見えておらず、母に似ているとよく評される容姿のほとんどは隠れているというのに、何故張美人の名が出たのだろうと不思議であるが。
――あ、ひょっとして声とか?
容姿が似ているということは、体格が似ているということでもある。そうであれば、声も似ている可能性は確かにある。雨妹は母がどんな声であったのかを当然知らないが、前世でも母娘で声がそっくりだという例は多くあったように思う。けれど以前に会話した時はこのような事態になっていないので、大麻の錯乱症状による妄想も混じっているのかもしれない。
「張美人、どこまでもわたくしを馬鹿にして、ケホッ、無様だと笑いに来たのか!」
咳き込みながら叫び続ける皇后は、次第に興奮が増してくる。
そんな皇后の様子に、燕女史はどうするべきかと思案顔で、陳の方はギョッとした顔で雨妹とを見比べている。
陳は年齢的に考えても、雨妹が産まれた時にはまだ後宮にいなかったか、既に医官として勤めていたとしてもまだ若く新入りであっただろう。ならば新入りの身で、妃嬪の産んだ子どもの名前を知っているとは思えない。その辺りの事情を知らなければなんのことやらわからないため、大混乱の最中であろう。
「雨妹、一旦下がれ!」
背後の立彬からも小声で退却の指示が飛ぶ。
「はっ、はい!」
雨妹もその指示に従おうと、後ろを振り向いたのだが。
「わたくしこそ皇后、皇后であるのだぞ!」
皇后の怨念すら感じられる様子に、雨妹は動けなくなってぴたりと止まる。
――ここで逃げて、私は本当にいいの?
皇后は雨妹にとって因縁の相手だ。けれどこのように薬物に侵されて「ざまぁみろ!」というようには思えない。尊厳ある一人の人間として、立ち直ってほしい。そのために皇后に必要なのは、なんであろうか? 周囲の優しさか、叱咤か、それとも――己を奮い立たせる敵か?
雨妹が探るように寝台に目をやれば、顔だけをこちらに向けた皇后のギラリと生気に満ちた視線とぶつかる。
――ああ、この人にはまだちゃんと力がある。
薬物患者によく見られる、誰かやなにかに急き立てられて自らを見失っている人とは違う。自らの意志をちゃんと持っている人だ。それがわかった雨妹は再びくるりと振り返り、頭巾と布マスクを取って顔を上げる。これまで散々言われてきた母に似たこの容姿が、皇后の前に晒された。
「張慧、見間違えぬぞその顔を!」
そんな雨妹の姿を目にした瞬間、驚くことに皇后は震えながらだが自ら寝台で起き上がったのだ。なんとしても張美人を面と向かって罵倒したい一心だろうが、弱った身体ですごい根性であろう。
「お情けなや皇后陛下、がっかりでございます」
そんな皇后に向かって雨妹は片手を頬に当て、小首をかしげて微笑んだ。




