635話 話し合いはまだまだ続く
雨妹は燕女史の視線に内心でちょっとビクッとしたものの、気合いでなんともない顔を作ってみせた。
「私は陳先生とおしゃべりするのに普段から入り浸っていまして、大麻は医局にあるものですから」
「……そうか」
苦しい言い訳だが、幸い燕女史は引き下がってくれた。彼女は聡い人なので、この場には呉もいるためあまり変なことを言いたくないという、雨妹の気持ちを察してくれたのかもしれない。
――呉様相手だと、いつもの言い訳で押し通せるか謎だもんね。
雨妹が立彬相手によく使う「物知りな旅人に教えてもらった」という理屈に、「どこの国からの旅人か?」とか詳細を求められたら困るのだ。むしろ今までそうした突っ込みをしたことのない立彬が優しいのであって、呉ではそこで踏みとどまらない懸念があった。
なにはともあれ、雨妹は気を取り直して呉に向き直る。
「大麻が医療の薬として取り扱いされている、精神へ作用するものであるのはケシ汁と同様です。病による苦しみを和らげる効果は優秀なのですが、用法用量を間違えば人の心を惑わせてしまいます」
「ふむ」
この説明に呉がひとまず頷くのを見て、雨妹はあえて告げた。
「ですが調べた挙句に全てが私の思い違いで、匂った香りは大麻ではない別の物かもしれません」
そう、あくまで雨妹が気付いた匂いであるので、確信があるわけではないのだ。
「早とちりの思い違いであればいいと、私も願いたい。ですが本当に大麻であった場合、空振りを恐れずに対処しなければ一大事となります」
「その通り、失敗を恐れて行動しないことと、失敗を恐れていてなお行動することは、結果に大きな開きが出るでしょう」
このように確実な話ではないと呉も承知したらしいところで、雨妹はさらに言う。
「皇后陛下から早く大麻を取り除くことが、健康を取り戻す手段でしょう。使用が長引けば当然影響が強く残ってしまいますから、のん気にしていられません」
百花宮が今後どのような形になっていくのか、雨妹にはわからない。それでも、皇后には健康でいてもらわなくては困ることはわかる。父は新たな皇后をどこかの家から送り込まれることを警戒して、皇后を据え置いているのだ。それなのに皇后が病気に倒れてしまって万が一死亡する事態になれば、この問題は始まりに戻ることになる。
だがここで、燕女史が難しい顔で口を挟む。
「大麻を取り除くと言うが、それは容易な事ではない。入手手段はいくらでもごまかしが効くだろうから」
「確かに、そこは不安材料です」
燕女史の意見に雨妹も同意する。
「それは何故ですか?」
呉が問うのに、雨妹は燕女史と顔を見合わせていたのだが、やはり燕女史が積極的に話したくないらしいと察して、雨妹の方が口を開く。
「大麻がケシ汁と違う点は、入手が楽なことです。なにしろ大麻の材料とは、麻の葉なのですから」
「麻とは、確かにどこにでも生えていますね。布や食材と、様々な用途に使える万能な植物ですし」
雨妹の説明を聞いて、呉が思案する顔をした。
「ええ、麻の葉を薬にするのは、ケシ汁と比べて加工の手間も楽です。なにより安価で手に入ります。地方によっては、大麻は煙草のように使う嗜好品になっていますしね」
「後宮にも麻の葉煙草を好む集まりが、昔からあったはず。だがそれだと、香りがいつまで匂うのかという点と、強い影響が残るものかも疑問がある」
雨妹の意見に、燕女史がそう補足する。確かに水煙草と香では効果が違うし、香りが強く残るのは当然香の方であろう。だから雨妹も香の匂いかと思ったのだ。
「ふむ、わたくし煙草は好かないからそういう話に疎いのです。けれど、簡単に出入りを制限できるものではないようね」
さすが呉は有能な女官で、雨妹たちの言いたいことを理解してくれたようだ。
ケシ汁と違い、麻という植物を危ない物だと思う者はそうそういないために持ち込めてしまう。それが大麻についての大きな問題だ。麻の栽培自体を禁じることができない以上、その葉を大麻として使うなと命じたところで、それが実行されるかは人の倫理に委ねるしかできない。前世でも大麻は世界規模で古代から何千年と続く問題であった。
ケシ汁も大麻も、健全な心身を持つ人であればその存在に見向きもしないだろうが、弱った人の心の隙に付け入ってしまう。皇后に大麻を勧めた人物は、その心の隙に付け入ったのだろう。
その付け入った人物として有力なのが今の所、皇后宮の次席女官の馬である。




