634話 女官二人と話し合い
「であるならば、雨妹が見たのは皇后陛下か? まさか、にわかには信じがたい。しかし現在の後宮で、馬殿が表面上だけでもそうまで下手に出るのは、皇后陛下以外にあり得ないでしょうし」
呉が眉間に皺を寄せて目を鋭くするが、雨妹にはさらに気になることがある。
「その上、その馬様らしき女官が、皇太后陛下の御名を出して脅していたようでして」
「なに?」
雨妹がそう述べるのに、燕女史までもが信じられないという様子で目を見張った。そういえば、燕女史にはここまで話さなかったかもしれない。
「確かに私は聞いたのです、その女性に向かって『皇太后陛下がご心配されましょうね?』と女官が脅すように囁くのを」
雨妹が詳しく語ると、燕女史があっけにとられている。
「皇后宮が未だに皇太后陛下のご威光無くして成り立たぬ様は見ているが、皇后陛下までにもそのように申すのか」
「あらまあ、馬殿もご自分の力でなんとかすればよろしいのに、情けないこと」
呉もこれを聞いて、不快そうに眉をひそめた。雨妹が前回の会話時に聞かなかったことにした件が、ここにきてぶり返している。
――う~、気になるぅ!?
結果、雨妹は己の中の野次馬心に負けた。
「あの、質問してもいいですか!?」
「よくってよ」
ビシッと真っ直ぐに片手を上げた雨妹に、呉が鷹揚に頷く。
「純粋に疑問なんですが、本当に尼寺にいらっしゃる皇太后陛下から、あれやこれやと意見が来るのですか?」
「あり得ないことね」
このそもそもの謎に、呉がヒラリと手を振り払うように振った。
「尼寺で色々と仰っているかもしれないですけれど、それがわたくしたちの耳にまで届くことはないの。何故って、尼寺にいらっしゃる方には、もう後宮に工作を仕掛ける伝手なんてないもの」
そう語る呉曰く、皇太后が従えていた様々な仕事をする集団は、全て皇帝によって解体されてしまった。だから皇太后が以前同様の影響力を振るうなんて出来るはずがないそうだ。
「こちらからでもあちらからでも、手紙すら妙なことを書けば、宮城に検閲されて捨てられるだけよ」
そう言って眉を上げてみせる呉は、嘘をついているように見えないし、嘘をつく必要性も雨妹には思いつかない。
――けど、そりゃそうだよね。
皇太后は敵国の手の者を引き込んだ大罪人なのだから、父だって権力やら手駒やらを徹底的に削いでから尼寺へ行かせたはず。尼寺にいるのはもはや皇太后ではなく、唯人なのだ。
では、皇后宮で依然として皇太后が健在のように語られるのは、どういう訳なのか? これについて呉が答えるには。
「馬殿を始めとした皇后宮の方々は、『今に皇太后陛下から罰が下される』という捨て台詞が好きなのです――まだ威を借ることができると信じたいけれど、心底信じているわけでもないでしょう」
「ふむふむ」
聞いた内容を雨妹の中で分かりやすく噛み砕くと、皇太后派閥の人々は権力闘争に敗北したことを、未だに受け入れられずに悪あがきをしているということか。
「あの者らにとって『皇太后』という名は、ただの口癖でしかないよ」
燕女史がお茶を飲みながら、そのように見解を述べてみせた。
そんなわけで、皇后宮でされている言動は受け流していた呉であるが、今回の件は見過ごせないらしい。
「馬殿の行動は気がかりです。あの方は皇太后陛下のご機嫌を取ることにかけては良い腕でしたが、果たして皇后陛下を御せる能力があるかしら? 皇后陛下は女官ごときに命令されるなんて死ぬほど嫌がるでしょうし、皇太后陛下がいなくなって清々するとでも仰る気がするのに」
訝しむ呉の様子を見て、燕女史が息を飲んだのがわかる。いよいよ肝心の問題を話す時だろう。
「そこが、私が同行した理由です。雨妹が言うには、皇后陛下から妙な匂いがしたとか」
「匂い……そう言えば」
燕女史の言葉に、呉がなにかを思い出すように宙を見上げている。
「皇后陛下は最近、妙な匂いの香を焚いていらっしゃるものだと思っていました」
呉は直に皇后の顔を見ることができなくても、近くまで行ったり部屋に入ることはできる。それならば、匂いを知っていて当然だろう。しかし呉には知識がなかったので、その匂いを単なる香だと判断したのだ。
「それは良くないものです。皇后陛下から匂っていいものではない」
そう断言する燕女史を見て、呉が眉を寄せる。
「それとは、一体なんなのです?」
いよいよ呉にそう問われた燕女史だが、どうやら言い辛いようで言葉に迷っているらしい。
――下手な説明だと、道士が疑われちゃうもんね。
困っている燕女史を放っておけなくなった雨妹は、助け船を出すことにした。
「呉様は、以前宮妓から発生したケシ汁騒動を覚えておいででしょうか?」
女官二人の会話に口を挟んだ雨妹に、呉は「無礼だ」とは言わずに視線を向けてくる。
「あれを忘れるほど、わたくしは耄碌していないわ」
そう答えてくる呉に、雨妹は頷いた。
「今回問題にしている代物――大麻は、あのケシ汁の代用品となり得るものなのです」
「ほう?」
呉が指先で卓をトントンと叩く。
「やはり雨妹、知っていたのだね」
そして燕女史がそう言って目を細めている。




