626話 己に返る行い
――後宮の闇の一番深いところにいる人だもんね、皇后陛下って。
雨妹はこれまで皇太后に比べてその名を聞くことがあまりなかった皇后のことを、後宮という舞台の配役のように感じていた。けれど今、急に一人の人間として目の前に迫られている気がする。
雨妹は皇后ではなく、今も父同様に時代に翻弄されている一人の女性を思い、ふと思いついた考えを口にしてみる。
「……あの、酒宴部屋を片付ける代わりに、そこを皇后陛下がお望みの部屋に模様替えをしてみるのはどうでしょう?」
この雨妹の唐突な思い付きに、呉が目を丸くした。
「あなた――張雨妹は皇后陛下に、恨みつらみはないのかしら?」
呉から疑いというより、変な子どもを見るかのような目を向けられた。そしてやはり、雨妹の素性を知っていたらしい呉に、雨妹は返す。
「恨みつらみでお腹は膨れますか?」
「は……?」
今度は呆け顔になる呉に、雨妹はさらに言う。
「逆に減る気がするので、そういうのは好きではありません。私はただ、与えられた仕事で最善を尽くすだけです」
「なるほど、興味深い意見だ」
だがこの会話に、呉ではない声が割り込んできた。
「燕女史!?」
そう、気が付けば燕女史が雨妹の後ろから歩いて来ていたのだ。雨妹は呉との話に夢中になっていて、全く気付かなかった。お付きはどこかで待たせているのか、そこにいるのは燕女史一人である。
「燕殿、いらしていたのね」
機嫌良く微笑む呉を、燕女史がじとりとした目で見る。
「あなたがわたくしを呼んだので、来たのではないですか」
燕女史がそうチクリと言うと、呉と睨み合う。
「呉殿、なにをなさるおつもりか? しかも、張雨妹まで呼び込んでおいて、事によっては大事になりますよ? 今、後宮を荒らさないでいただきたい」
後宮を実質的に管理してきた立場として厳しい顔でそう告げる燕女史だが、雨妹はこれに物申したい。自分のような下っ端掃除係に事を大事にする力はないし、まるで騒動製造機のような言い様には遺憾である。微かにふくれっ面になる雨妹を横目に、呉がニヤリとした。
「まあ、荒らすもなにも、これは皇帝陛下からのお言いつけなのですよ? 『皇后を叩き起こせ』とね」
「うん……?」
今の呉の言葉に、雨妹はひっかかりを覚える。呉と父と皇后、自分はこの三者の名前が出てきた会話を、最近したばかりではないだろうか。
――あれ、ひょっとして私が好き勝手しゃべった作戦が、いつの間にか採用されちゃっている!?
雨妹が背中に妙な冷や汗をかいてきた傍らで、呉が楽しそうに話を続けた。
「わたくしはね、『宮荒らし』という呼ばれ方を案外気に入っているの。だって、どんな豪華な宮であってもいつかは中から腐り、廃れて崩れ落ちるわ。この宮のようにね」
呉が腕を天に伸ばしてくるりと回る。
「その崩れるのをちょっと手伝ってやれば、そこにはまた美しい花が咲くかもしれない。わたくしは見飽きた毒々しい花ではなく、見たことのない涼やかな花を探したいの」
そこで一旦言葉を切って、呉が雨妹を射抜くように見た。
「張雨妹、もちろんあなたも協力してくれるのよね?」
「呉殿! だからこの娘を巻き込むのはお止めなさい、冒険が過ぎる!」
燕女史が話を遮るように声を上げるが、それは雨妹を思ってくれているようで、心を抉りもするもので。
――いやいや、私は無害な掃除係ですので!
けれどあの呉の目を見ていると、皇帝の指示が雨妹の発案だということを察しているような気がしてならない。いや、恐らくは雨妹の気のせいだろう、立彬も楊もそんなに口が軽い人たちではないのだから。けど、計画の内容が、これまで敵を力で捻じ伏せてきた皇帝らしくない手だと思われたのかもしれない。そして皇帝に近しい立場の人ならば、お忍びで度々会う宮女の存在くらい突き止めるだろう。
――ぐわぁ、あの時余計な話をした私を叱りに行きたい!
けれど、全方向から悪者にされる父を可哀想に思い、面倒を抜け出す道を考えついてしゃべってしまったのだ。だから仕方ない、これも己が蒔いた種であるし、人助けなことには違いないのだから。
「わかりました、私もお手伝いさせていただきます」
「張雨妹!?」
「ふふ、そうこなくてはね!」
雨妹が出した答えに、燕女史が驚き、呉が嬉しそうに手を叩く。
こうして、雨妹は皇后宮の問題に挑むことになってしまったのである。