625話 泥沼に手招きされている
現在皇后の筆頭女官である呉自ら門まで下っ端掃除係を出迎えるとは、雨妹としてはなんとも居心地が悪いことだ。
「いらっしゃい、こちらよ」
呉に手招きされ、雨妹は黙ってその後ろについていく。
「あなたにはね、不要になった酒部屋を全て処分してもらいたいの」
歩きながら、雨妹は呉から今日の仕事内容を聞かされた。皇后の酒宴好きは有名であり、酒宴を開くための部屋が大小さまざまな趣向であるらしい。どうやらその酒宴のための部屋をいくつか片付けるようだ。
「皇后宮をね、それに相応しい趣の宮にしたいのよ。今のこの宮は下品でいけないわ。これまでのままでは宮ではなく、品のない酒館ですもの」
「はぁ」
嫌そうに語る呉に、雨妹はなんとも言えずにただ相槌を打つに留める。
「人だってかなり減らしたのよ、酒宴に侍らせる見目麗しい宦官ばかり多く揃えていたけれど、そういうのはもう要らないの」
「え、ということは、宮での酒宴を禁じられたのですか?」
物も人も酒宴関連を徹底的に片付けようとしているので、雨妹は思わず聞いてしまう。すると呉が心外だという表情で、背後の雨妹を振り返った。
「まあもしや、わたくしが禁じたと思っているのかしら? 生憎と違うわ、皇后陛下がとんと酒宴を催さなくなったの。おそらく飽きたのではなくって?」
「そうなんですか……?」
雨妹は意外に思うけれど、人の趣味嗜好は変わるものではあるので、皇后の中で酒宴を楽しく思う時期が去ってしまった、というのはあり得る話だ。しかし、部屋の片付けならばわざわざ雨妹を呼び込まずとも、宮にいる人員で出来そうなものだ。
「宮の宮女にさせないのですか?」
この雨妹の疑問に、呉がため息を吐く。
「言いつけても動かないのよ、許可を得ていないとかで――この宮ではね、未だに皇太后陛下は健在でいらっしゃるようよ。その皇太后陛下の了承がないと、怖くてなにも出来ないのですって」
「え……」
意外なことを言われた雨妹はギョッとして息を飲むが、己の中の野次馬心を封じて危機管理能力を総動員し、話題を逸らす。
「あの、そう! 皇后陛下はお好きだった酒宴を開かれないのならば、どのように過ごしていらっしゃるのでしょう、お茶会ですか?」
答えてもらえなくてもいい、くらいの気持ちで聞いてみた雨妹だったが、これに対する呉の言葉は意外なものだった。
「まったく、つまらないったらないわ。皇后陛下はもっと激しい御方だと期待していたのに、全てを人任せにして引きこもっておいでですもの」
呉が一体なにを期待していたのか気になるが、今の言葉で問うべきはそこではない。
「なんと、皇后陛下は引きこもりなんですか?」
「そう、毎日皇后陛下のお言葉だけが次席女官――元筆頭女官ね、彼女から他の者らに伝えられるだけで、当人は姿を現さない。わたくしでも寝台で布越しの会話をするだけね」
「まぁ……」
なんと皇后は我が世の春どころか、まさしく引きこもりである。しかも伊貴妃のような名ばかり引きこもりではなく、真実の意味での引きこもりだ。
――我が世の春! って感じじゃあないなぁ。
皇后宮の人たちはまだ皇太后の影に怯えていて、皇后も未だに皇太后の支配下にいるのだろうか? いやけれど、以前と違って皇太后と物理的に距離ができたのだし、皇后が皇太后の影響を排除することは可能な気がする。やはり皇后の「我が世の春」は、すぐそこまで来ているはずなのだ。
宮の主が顔を見せずとも、他人の命令で全てが動く皇后宮は、もしかして皇后の今の心の在り様と同じなのだろうか? 大きく変わりゆく百花宮の中で、この皇后宮だけが時間が止まってしまっているのかもしれない。
そんな皇后宮にいる皇后は、一体どういう気持ちで、どういう考えでいるのだろうか? もし、皇太后によって皇后に据えられなければ、皇后は一体どんな女性になっていたのだろうか?