623話 初接近
雨妹が立彬や楊と燕家についての話をした、数日後。
「ふふ~ん♪」
雨妹は王美人の屋敷へ呼ばれた帰り道、鼻歌を歌いながら三輪車を走らせていた。
莉の部屋を再び整えたので、一度掃除係として確認をしてほしいと言われて向かったのだ。
「素敵可愛い部屋になっていたなぁ」
無駄に埃を生まないように、それでいて可愛くなるようにと、考え抜かれた内装になっていた。子どもにはあの年頃にしか似合わない雰囲気というものがあるし、それを楽しめる期間はそう長くはない。王美人も莉のお付きの人たちも、その短い間の楽しみを精一杯満喫したいのだろう。雨妹も一緒になって盛り上がってしまい、大変有意義な時間を過ごせて幸せである。
そんなご機嫌な帰り道の途中、進行方向に軒車行列が見えた。
「おっと」
雨妹は慌てて三輪車を止める。
軒車とはだいたいにおいて下っ端掃除係よりも偉い人が乗っているものなので、ひとまず邪魔にならないようにするのが正解なのだ。しかもあの軒車についている印は、皇后のものである。
――この前みたいな、お付きの人かな?
一瞬そう思った雨妹だが、すぐに「いや」と思い直す。この行列の仰々しさを見るに、皇后本人が乗っているに違いない。
それにしても、雨妹はこれまであまり皇后の関係者と遭遇することなく過ごせていたのに、最近は遭遇頻度が上がっている。皇后本人との遭遇はないにしても、あの三竦みの現場以外でも、お付きとの接近は数多くあったのだ。皇后は積極的に行動しているようだが、その積極性の方向性が、雨妹にとってはなんとも微妙である。かつての皇太后のように振舞おうと、皇后もある意味で必死なのだろうけれども。
「なんだかなぁ。皇后陛下もせっかく目の上の瘤がなくなったんだからさぁ、周りがもっと自由を楽しませてあげればいいのに」
雨妹が軒車行列を遠目に見ながら、思わずそう零していると。
「あら、なにが?」
「……!?」
なんとこれに誰からか突っ込まれたのに、驚いた雨妹は無言で跳び上がる。
――なに!?
よりによって皇后宮への愚痴ともとれる内容を聞かれたとあって、雨妹は口から飛び出るかと思うくらい心臓をバクバクさせてしまう。
「ふふ、こんにちは」
一方で、そんな雨妹を楽しそうに眺めているのは、どこか見覚えのある顔であった。会話をしたことがないが、遠目に見たことはあるこの人は――
「あ、呉様!?」
そう、あの三竦みの現場で見た、新たに皇后付きの女官になったという呉であった。
「あら、わたくしを知っているのね。我ながら有名人だこと」
雨妹が名を叫んだのに呉が目を丸くするが、これまた失礼な態度である。
「申し訳ございません!」
雨妹は慌てて頭を下げて礼の姿勢を取る。
――偉い人の不意打ちなんて困るよ!
雨妹が泣きそうになるのをぐっと堪え、「叱られないといいなぁ」と願っていると。
「謝罪なんてどうでもいいから、今の話を聞きたいわ。『楽しむ』ってどういうことかしら?」
「え!?」
まさか愚痴を無礼だと叱られるのではなく、話の続きを求められるとは思わなかった。雨妹はいっそ心臓が止まるのではないかと思うくらい、うるさく鳴っている。
それに雨妹のぶっちゃけ話を太子の関係者や楊相手にするのと、知らない相手にするのとでは、その会話の重要性が全く違ってくるだろう。皇后関係者に皇后周辺への不満を口にするのは、普通に首が物理で飛ぶ危機である。
「いやぁ、大した話ではないですよぉ」
「で? 怒らないから言ってみなさい」
言葉を濁してヘラリと笑う雨妹だが、相手は引き下がろうとしてくれない。
「……」
「……」
しばしお互いに無言の時間が過ぎて、やがて根負けした雨妹は仕方なく口を開く。
「皇后陛下には、もう煩いことを仰る皇太后陛下はいらっしゃらないでしょう? ならば皇太后陛下のご意思に沿う行動をする必要はないわけで、皇后陛下も自分らしく行動なさることができるのにと、そう思えてしまいまして」
雨妹がそれでもなんとか穏やかに聞こえる言葉を選んで述べたのに、呉が眉をひそめた。
「自分らしくしようとして、アレなのではなくて?」
呉が軒車行列を指差すのに、しかし雨妹は首を横に振る。
「いえ、現状は単なるこれまでの行動や皇太后の真似を惰性で続けているだけでしょう? 皇后陛下が、皇太后陛下に逆らえるわけがなかったんですし。心身に染みついた思考や行動であり、ひょっとして他のやり方や生き方を知らないのではないでしょうか?」
皇太后や皇后は東国兵を引き入れて、後宮をケシ汁汚染させたり破壊工作させたりした原因の人たちだ。けれどそれらを皇太后や皇后が自ら具体的に計画したとは、雨妹だって考えていない。あの二人――特に皇太后は時代的にそのような教育を受けた人ではないだろう。皇太后がただ我が儘を言うだけでも、美味い汁を吸いたい連中が寄って集って願いを叶え、そうしておだてられて調子に乗った末に事件が起きたのだ。
その点皇后は、そんな皇太后とやっていることが似ていても、格下感がにじみ出ている。あの三竦み現場だって、あれがもし皇后ではなく皇太后のお付き相手であったならば、ああはならなかっただろう。
というかそもそも、皇太后が自分よりも目立つ者を皇后に選ぶはずがない。逆に考えればそれはつまり、皇后は皇太后に比べて歪みがまだ少ないということでもあるのではないだろうか?
――だから父も、皇后陛下を「椅子に座らせたままでいいか」って考えたんだろうし。
この雨妹の意見に、呉が「ふぅん?」と目を細めた。




