616話 いつもの自分に戻る
それでも燕淑妃にとって命綱のような存在が、なによりも大好きな姉である燕女史なのだろう。文芳と話している時も気安い態度であったが、やはり燕女史に向ける目の輝きが違った。幼少の頃から、よほどあの姉を頼りにして生きてきたのだろう。
――っていうかあの着せ替え趣味も、燕淑妃の自信の無さの表れかもね。
もっと違う自分になりたいというある種の変身願望を、着せ替えで満足させているのではないだろうか?
雨妹が自分の考えに耽っている間、秀玲は静かに髪を梳いてくれている。
「よし、できたわ」
やがて秀玲が雨妹の髪をいつもの髪形に整えたところで、雨妹はハッと思考から意識を戻す。目の前にある鏡には、いつもの下っ端宮女の格好の自分が映っていた。
「はぁ~、やっぱりこの格好が落ち着きます」
頭の先からつま先まで普段の自分に戻れて安堵する雨妹の背中を、秀玲がポンと叩く。
「あの子がお茶を淹れているでしょうから、行きましょう」
秀玲に促されて移動した先で、その通りに立彬がお茶を用意して待っていた。
もちろん燕淑妃宮でもお茶を出されたのだが、あの状況でお茶が喉を通るはずもなく、雨妹は今喉がカラカラに乾いていたりする。おやつに糕まで出されて、雨妹の心労で削れていた気持ちが回復していく。
「美味しいでふ……」
うっとりと糕を食べてお茶を飲んでと忙しい雨妹を見て、立彬が「やれやれ」という顔をする。
「それで雨妹よ、燕淑妃宮に出向いた収穫はあったのか?」
立彬に問われて、雨妹は一瞬の間をおいてから口元に笑みを浮かべた。
「なにも収穫がなければ、私ってば遊ばれ損じゃないですか」
雨妹は出された宿題のとっかかりができたと思っていた。そう、自分だってただただ振り回されて過ごしていたわけではないのである。
「ひょっとして、という可能性は一つあります」
「ほぉう? 目に力が戻って来たようではあるな」
雨妹の答えに、立彬が微かに眉を上げて指摘してくる。
――私ってば、そんなに死んだ目をしていたの?
けれど確かに、雨妹はやっと状況が自分の手で掴めるところまで近付いているという感じがしていた。
燕淑妃には、立彬から聞いたような才女の要素は今の所見られない。いや、出る所へ出ればガラリと変わる可能性もあるけれども。それでも今の所、あの皇太后と渡り合って後宮を管理していた人とは思えないのが実情だ。
むしろ噂に最も近しい人物像なのは、燕淑妃よりもむしろ燕女史の方ではないだろうか? 容姿さえ誤魔化せば、完璧に噂通りだ。
―― 一心同体か、なるほど?
父から示唆された情報が、雨妹の中で徐々に答えを形作ろうとしている。
思えば雨妹は最初に太子宮の方で江貴妃を知っていたので、彼女を四夫人の見本のように考えていたのかもしれない。しかしなるほど、四夫人といえどもまずは人なのだと、文芳と燕淑妃の二人を見ていて改めて感じさせられたものである。
それにあの父が、お行儀が良くて後宮内での権力争いに精を出すだけが全てのような女性を選ぶとは思えない。ある程度国内の政情が落ち着いている今と違い、四夫人が選ばれた当時はまだ内乱が治まったとは断定できない時代である。父は四夫人に見栄よりも実利が欲しかっただろう。自分が欲するものを差し出してもらい、相手の欲しいものをこちらが差し出す。父にとっての四夫人とは、そうした持ちつ持たれつな相手というわけだ。
そう考えると、文芳や徳妃である黄才の望みはわかりやすい。文芳は好きな石細工に打ち込める生活を、そして黄才はつい最近まで争った仲である皇帝との融和、その先にある海の平和というあたりだろう。
では、燕淑妃は一体なにを望んだのだろう? 燕女史の意見を参考にするならば、国の安寧か? いや、それはあくまで燕家の意思だと考えるのが自然だ。
――燕淑妃が望んだものがなにかあって、父はその約束を完遂しようとしているのかな?
ならば雨妹は、父のその約束を守れるように手伝うまでだ。
「よぅし、なんだか燃えてきました!」
やる気が満ち満ちてきた雨妹に、立彬がお茶のお代りを淹れてくれる。
「それでこそ、いつもの張雨妹だな」
「これからが、気合の入れ所かしらね?」
立彬や秀玲が鼓舞してくれるのに、雨妹はニコリと笑う。
「はい、陳先生と共に、皇帝陛下のご期待に応えてみせますよ!」
雨妹はそう宣言すると、一人拳を突き上げるのだった。




