614話 弾まないなりに
さてここからなんの話題に繋ぐかと考えた雨妹は、もう少し突っ込んでみることにする。
「私、ちょっとだけ耳にしたのですけれど。燕淑妃宮というのは、後宮内でもお仕事が多いのですってね。あなた様、燕女史は燕淑妃の腹心中の腹心なのでございましょう? お忙しいのも道理ですね」
「おやおや、情報集めが上手いな。ずいぶんと良い耳を持つ掃除係殿だ。まあこちらの身分は、ちょっと聞き込めばすぐにわかっただろうがな」
下っ端掃除係らしからぬ話題に、燕女史が微かに眉を上げて目を細める。
「だがそれとて、全ては国の安寧のためであるよ。後宮は国の縮図だからな」
そんな台詞がさらりと出てきた燕女史に、今度は雨妹の方が眉を上げた。
主のためでも皇帝陛下のためでもなく、国の安寧のためときたか。燕淑妃のいち女官でしかない身としては非常にお堅い、そして大それた意見である。
――これが「燕家」としての模範解答ってことかな?
燕家とはひょっとして、人ではなく国を見ているのかもしれない。となると、そうとうお堅い一族であり、この燕姉妹も相応の教育を受けていると見た方がいいだろう。
雨妹がこのように燕女史の反応を窺うようにしていると。
「それにどんなお役目だって、大変ではないものなどないさ。そうだろう? 掃除係殿」
燕女史がさらっと切り返しつつ話題を変えたのは、これ以上の問答をしたくないということだろう。
「そうですね、我々の場合は火の始末には特に毎回神経を使います。そうだ、以前に貰ったお札、使わせていただいていますよ」
「そうか、ならばよかった」
雨妹が以前に貰ったお札の存在を思い出して、活用していることを告げると、燕女史は嬉しそうに口の端を上げた。
「女官であれ道士であれ、誰かの役に立ってこそであるな――だがわたくしのお役目はそろそろ仕舞いだ。これで主に窮屈な思いをさせることもなくなる」
最後の方で、燕女史が独り言のようにボソリと零す。
――窮屈、ってなんだ?
目を瞬かせる雨妹に、燕女史が微かに笑みを浮かべる。
「ふふ、その格好はなかなか似あうぞ? 我が妹妹の見立ては優れているからな」
そこから、さすがの雨妹もそれ以上追及することはできないまま、庭園散歩を切り上げて門へと向かうことになった。だが、このまま帰るのはやはり避けたい。
「あの、どこかで着替えさせてもらえませんか? 帰るのに障りがあるというか……」
この格好で三輪車を漕ぐわけにはいかないし、やはりどこかで部屋を借りて着替えさせてもらうしかないと思った雨妹だったが。
「まあ待て。伊貴妃宮に伝えたので迎えが来るはずだ」
「はぁ」
燕女史に止められたのに、雨妹が伊貴妃宮から一体誰が迎えに来るのだろうか? と考えつつも、来た際に通った裏門へ向かえば、そこには軒車と共に知った顔の迎えが待っていた。
「立彬様ぁ~!?」
雨妹はそのいつもの立彬の顔を見ると、思わず全力で駆け寄る。
「雨妹か!?」
一方で駆けよられている立彬は、雨妹の燕淑妃に着せ替えさせられたままの格好を見てぎょっとした。だがそんな相手の反応なんて知ったことではないとばかりに、雨妹は立彬にドーンとぶつかっていくと、手を握ってブンブンと振る。
――普通だ、普通の人がここにいる!
雨妹は情緒が振り切れて、今から踊り出してしまいそうだ。
「……なにか多大な苦労があったというのは察した」
雨妹の行動で理解してくれたらしいのは、さすが立彬である。雨妹だって、こんなに立彬の顔を見て安堵したことは、過去にもそうそうない。少なくとも、あの大偉に髪を切られかけた花の宴の時と同じくらいには、今ホッとしている。
「伊貴妃宮からの迎えで太子宮の宦官が来るとは、奇妙なことがあるものよ」
燕女史も立彬が迎えであるとは知らなかったのか、その姿を見て微かに目を見張った。
「まあいい、確かに身柄を渡したからな」
「あの、送っていただき感謝いたします!」
しかしすぐに気を取り直すと、そう言って門の中へ戻ろうとする燕女史に、雨妹は慌てて声をかけて礼をする。
「ではな」
すると燕女史は片手を振ってから、来た道を戻っていった。




