608話 使いこなしている
「わたくしは陛下の面目を失わせないように、貴妃の座を守るだけよ。妙な欲を見せれば、逆にあの子や陛下の足を引っ張ってしまう。誇れる貴妃ではなくとも、我が子が心配をせずに済む母ではいたいじゃない?」
文芳は俯いていた顔を上げて、今の空模様を語るような口調で雨妹に話す。
「だから明賢には、わたくしは好きに暮らすので、あなたも好きにすればいいのと言うだけよ。太子としてのお役目を全うしさえすれば、あとはなんだってやればいいの」
この意見は、人によっては「無責任だ」と言われるのかもしれないし、突き放した態度にも見えるのだろう。けれどこの誰かを思う温かな言葉遣いが、この人があの太子の母なのだと、雨妹は理解する。雨妹が困ったときには力になってくれる太子と、似た温かさを感じるのだ。
――この人は、ちゃんと親なんだな。
雨妹は後宮における親の愛の示し方を、また新たに見た気がした。
「だからこれでいいの。あなたもこの話は、わたくしとの秘密にしてね?」
「はい、秘密ですね!」
そう言って唇の前に人差し指を立ててみせる文芳と、雨妹は笑みを交わすのだった。
そんな話をしているうちに、三輪車が燕淑妃宮に到着した。
雨妹が以前に来た門ではなく、裏門である。
――燕淑妃宮は今、外との交流を閉じているっていう話だったっけ。
裏門に来る前に表門を横切ってきたが、たしかに門は閉ざされていた。閉ざされた門というのは、それだけで不穏なものを感じさせるものだ。雨妹が燕淑妃宮を前にして腰が引けてしまい、頭巾を目深にかぶり直す。
「よいしょっ」
そんな雨妹の一方で、文芳は三輪車の荷台から降りてスタスタと裏門に近付き、門の横にある木戸を叩く。すると木戸が開き、中から宮女が一人顔を出した。
「何用か?」
「呼ばれて参りました」
その宮女が問うのに、文芳が頭を下げて礼の姿勢を取る。貴妃なのに下っ端の礼の仕方に慣れているあたりが、相当に石細工職人としての立場を使い込んでいるようだ。
「おや、文ではないか」
するとその宮女がすぐに文芳のことに気付いたのだが、まさかの顔馴染みであったらしい。
「通れますか?」
「ああ、通って良い。そちらは見ない顔だな?」
文芳に気軽に応じる宮女が、雨妹の方に目を向けてきた。
「ええ、新しい手伝いです」
「どうも!」
文芳に紹介された雨妹が慌てて礼をする。
「そうか、そなたも良き職人になるように励め」
雨妹は文芳の弟子だと思われたらしく、宮女に応援されてしまった。
なにはともあれ、雨妹たちは無事に燕淑妃宮内に入ることができたのだが、拍子抜けしてしまうくらいのあっさりさである。
――いやいや、上手くいく時程油断しない!
気を引き締める雨妹に、文芳がニコリとして告げる。
「まずは、依頼主に会いに行きましょう」
「え、私もですか?」
依頼主とはすなわち、燕淑妃だ。雨妹はてっきり文芳だけが燕淑妃の元へ行き、自分は適当に時間を潰す名目で散策という名の偵察をするつもりだったのだが。
「いいから、いいから」
しかし文芳が手を取って歩き出してしまう。雨妹はそのてのひらの感触にハッとする。
――てのひらが固いや。
伊貴妃として日々大事に手入れをされているてのひらではなく、たこができている職人の手だ。文芳は金持ちの道楽などではなく、本気で石細工職人をしているのだと、このてのひらで改めて思わされる。貴妃としての生き方では正解なのかはわからないが、真面目な人ではあるのだろう。真面目な職人の手というのを、雨妹は大好きだ。またまたなんだか心の中が温かくなった雨妹は、文芳の手をぎゅっと握り返す。
「……っ」
すると握り返されたのが意外だったのか、文芳が雨妹を見る。顔を隠している布の下で驚いているのがわかる。
「ふふっ」
これまで驚かされっぱなしだった雨妹なので、逆に驚かせたのにはちょっとだけ気分がいい。すると雨妹に釣られるように、文芳もふにゃりと笑った。




