607話 職人として、母として
こうして「石細工職人の文」と名乗る文芳と共に、雨妹は出かけることになった。向かう先はもちろん、燕淑妃宮だ。
――昨日の「伊貴妃としてなら」っていう話って、こういうこと!?
雨妹もようやく状況がつかめてきた。引きこもりの貴妃という噂の伊文芳だが、なんということはない。伊貴妃として活動していないだけで、石細工職人としては積極的に活動していて、それなりの繋がりを持っているのだ。伊貴妃お抱えの職人であれば、売れっ子なのも当然だろう。
というわけで、雨妹は文芳と二人で移動することになったのだが。
「まあ楽しいわ、この三輪車って!」
雨妹は現在、ケラケラと笑う文芳を三輪車の荷台に乗せて運んでいた。
――なんでこうなったの!? ねえ秀玲さぁん!?
雨妹は緊張で三輪車を漕ぐ足に変に力が入ってしまうし、冷や汗が止まらない。ここで万が一三輪車の操作を誤って伊貴妃を荷台から落として怪我をさせてしまったら、雨妹の首が物理で飛ぶ危機である。
そんな雨妹の心の中を知ってか知らずか、文芳が荷台から話しかけてきた。
「急にね、燕淑妃からの依頼が入ったのよ」
「はぁ」
「なんだか大事なものを作ってほしいということで、女官を介してじゃなくて意匠を決めたいという要望があったの」
「はぁ」
「わたくしが得意なのは、装飾品みたいな小物ね。誰かを思い描いて意匠を考えるのは楽しいものよ」
「はぁ」
雨妹はなんと言うのが正解なのかわからず、下手な相槌も打てないでいる。
というか、秀玲はそのことを知っていたから、文芳を訪ねたのだろう。雨妹はこういうことは事前に教えてほしいと思うと同時に、到底教えられることではないのもわかる。第一、なんと説明すれば雨妹は信じただろうか?
――普通、揶揄われたと思うよね。
それにしても、石細工職人としての仕事を楽しそうに話す人だ。
「ひょっとして、作った石細工は売っているんですか?」
雨妹が恐々と尋ねると、文芳は「もちろん」と頷く。
「売って青州の資金の足しにしてもらわなきゃ。皇帝陛下もよく買ってくださるわ」
「そうなんですか!?」
「ええ、陛下はわたくしが石細工をするのを許して、応援もしてくださるの」
雨妹はあの父はなんてことを許すのかと思うと同時に、あの父らしいとも思ってしまう。
――ということは、この人は皇帝御用達職人でもあるのか。
ひょっとして後宮で開かれる市でも、密かに売られていたりするのだろうか? 雨妹も文芳の仕事の品を見たことがあるのかもしれない。
「それは、太子殿下もご存知なので?」
雨妹の続けての質問には、しかし文芳はしばし沈黙する。
「……いいえ、明賢にはそこまで話さないわね」
急に文芳の声が小さくなったので、雨妹がちらりと後ろの荷台に目をやると、膝を抱えて俯いていた。
「だって、偉そうにはできないでしょう? どうあってもわたくしの実家の青州は、後ろ盾として力になれない。太子の母として後宮の支配者になるなんて向かないの。向かない人間がそんな立場に就いては、誰かを不幸にするわ」
「それは……」
文芳の言葉に、雨妹はぐっと唇を噛み締める。
秀玲は「文芳に権力欲がなかった」と話したけれど、そうではない。確かに権力への欲は薄い人なのだろうが、権力よりも大切な存在を守ることにしただけだ。
文芳が権力に見向きをせずに宮に引きこもっていれば、皇太后から「敵になり得ない弱い者」と見なされ、攻撃を受けることは避けられる。「弱いからこそ痛めつける」という性格の者もいるのだろうが、皇太后はそうではなかったのだろう。問題は伊貴妃としての矜持と誇りが傷付くという点であるが、文芳はそんなものよりも太子の安全を願ったのだ。