601話 後宮昔事情
その約束を決めた当時は権力の独占を防ぐというよりも、皇帝位とは他国との折衝といった面倒事を背負うばかりでさほど魅力的なものではなかったために、その面倒事を押し付ける代表を欲したのだ。けれどそれも時代の移ろいと共に、やはり「国を率いる役目」という目立つ立場が魅力的に見える者が多くなってきてしまったのだろう。
しかし戦乱で色々と懲りたため、父は改めて最初の約束通りに戻そうとしたわけだ。それで誕生したのが現太子である明賢だった。
「伊貴妃は太子を誕生させるために選ばれた妃よ。その重圧も皇太后からの横槍も相当のものだったけれど、彼女は見事に男児を産んでみせた」
秀玲がどこか誇らし気に告げる。
――確かに、男の子を狙って産むなんて出来ないもんね。
それに太子には同母の兄弟姉妹はいないはず。ということは、伊貴妃は一人目で太子を産んだということで、その点も幸運の主なのかもしれない。
伊貴妃は正当な太子を産んでその戦乱の芽を早いうちに摘むという、皇帝にとってはこれ以上ない功績を上げてくれた。後宮の主導権なんて、やろうと思えば誰にだって握れるけれど、『揉める必要のない予定通りの太子を産む』というお役目は、伊貴妃ただ一人にしか成し得なかったことだ。国を傾ける最大の要因を一つ潰したのだから、なるほどこれは皇帝にとっては最大の功労者かもしれない。面倒なことを全て他人に押し付けて、余生を遊んで暮らしても文句を言われる筋合いはないだろう。
そう考えて大いに納得する雨妹だが、秀玲は「けれど」と話を続ける。
「伊貴妃が表舞台に立たないのは、後宮内での権力図を考えれば仕方ないという面もあるわ」
というのも伊貴妃の後ろ盾となるべき青州は、当時内乱が治まって新たに州として立ったばかりで、後宮を支配できるような権力も財力も持ち合わせてはいなかった。だから伊貴妃が国母として後宮の主の座を望まないのは、実家の影響力を考えれば自然な流れともとれるのだそうだ。
秀玲がさらに語る。
「逆に伊貴妃が欲をかいて後宮の主の座を得ようとしていたならば、皇太后陛下にとうてい敵わず、後宮は大混乱でもっと酷いことになっていたことでしょう」
いくら父の代で大幅に人数が減ったとはいえ、それでも大勢の妃嬪が暮らす後宮を支配するには、やはり多数派であることが有利と働く。それなのに味方が少ないどころか出来立てほやほやの青州なんて、孤軍奮闘するしかできないわけで、それで後宮の支配なんてできるはずがない。もし伊貴妃が権力欲旺盛な人であれば、さぞや悔しかったことだろうし、それで失意から引きこもったという考え方もできる。
そんな雨妹の想像に、しかし秀玲の言葉が待ったをかけた。
「それにね、伊貴妃自身にそうした権力欲がなかったのよ」
「ははぁ」
それはまた、父にとってはおあつらえ向きな女性である。
――だから、父は伊貴妃に多くを求めなかったのかも。
求めすぎては、伊貴妃に多大なる心労がかかってしまう。父は心労の元を排して、安心して太子を産んで欲しかったのだ。このように雨妹が父の心情を想像していると、秀玲は言葉を続ける。
「けれど、そうなると皇太后の権力が暴走してしまう。伊貴妃の青州では皇太后への重石になり得なかったからこそ、陛下は代わりの重石として淑妃に燕家が必要だった。そしてそんな諸々の事情を飲み込めるのが伊貴妃、伊文芳という女性よ」
「なるほど、そこで燕淑妃の話に繋がるんですか」
雨妹はここまでの話で、ややこしくなってきた脳内後宮図を懸命に整理する。
――後宮って、案外皇太后陛下一強じゃあなかったんだな。
けれど人間関係なんてそんなもので、表面上はある人を立てていても、裏では別の人とやり取りをしているなんてよくあることだ。皇太后もなにかと口を挟んでくる面倒な存在ではあったものの、影響力というのは本人が思った程ではなかったのかもしれない。けれど半端に影響力がある人の方が、案外どうにかするのが面倒だったりもするのだけれど、なんて雨妹は考える。
しかし秀玲が伊貴妃について為人ではなく、背景について語ってくれたのは、本当の姿は自分の目で確かめるために、先入観を持たせなかったのだろう。それに雨妹はこれで父の四夫人では貴妃、淑妃、徳妃について知ることになるわけだが、その誰もがとことん実利を優先した関係のようだ。