600話 伊貴妃についてお勉強
燕淑妃の訪れやら、それに関する呼び出しやらで色々と忙しなかった、その翌日。
雨妹が言われた通りに朝から太子宮にやってくると、もう秀玲が軒車と共に待っていた。
「さあ、行きましょうか。伊貴妃宮には既に先ぶれを出して、わたくしが訪ねることは伝えてあるから」
そう告げる秀玲に手招きされた雨妹が一緒に軒車に乗り込めば、すぐに伊貴妃宮に向かって動き出す。
ところで雨妹は今のうちに気になることを聞いておきたい。というのも雨妹は伊貴妃について、太子の母親だということと、昨日に楊から気になることを言われた以外では、宮女の間で囁かれる噂でしか知らないのだ。
噂によると伊貴妃とは、皇太后や皇后に辛くあたられたせいで、心を病んで表舞台に出なくなった引きこもりだという。その噂も、皇太后と伊貴妃との関係性を考えると、あり得る話である。
――立彬様の口からも、伊貴妃の話が出たことがないしなぁ。
その上、太子にとっても繊細な話題であるのは理解できるので、雨妹も昨日のあの場でこの疑問を口にするのは憚られたのだ。普段野次馬が強めな雨妹であっても、こういうことには気にするのである。
「あの、伊貴妃とはどのような方なのでしょうか?」
というわけで疑問を素直にぶつける雨妹に、秀玲が「あら?」と首を傾げる。
「そうねぇ、そういえばこれまで私が話をしたことがなかったのかしら? あの子の方は、噂以上のことは知らないから、あなたに話すことはなかったでしょうし」
秀玲の言う「あの子」とは、おそらくは立彬のことだろう。
「立彬様も知らないのですか?」
意外に思う雨妹に、秀玲が「そうよ」と頷く。その理由としては、太子本人はともかくとして、太子の宦官が皇帝の妃に近付くと外聞が悪いから、というものであった。相手がたとえ主の母君であっても、その辺りの事情は変わらないようだ。太子も伊貴妃の話題を外で積極的にすることもないので、そちらからの情報も耳に入らないらしい。
――それにまあ、立彬様ってアレだしねぇ。
アレというのは、立彬の正体は本物の宦官ではないということだ。万が一の醜聞に巻き込まれないためにも、余程のことでない限り、立彬は伊貴妃宮に近付くことをしないのだろうと、雨妹は推察する。
このように雨妹の耳に伊貴妃の話が入ってこなかった事情がわかったところで、改めて伊貴妃について秀玲から話してもらえた。
「伊貴妃があまり表舞台に出てこない方なのは事実だけれど、雨妹が聞いたような噂の信憑性は、話半分といったところね。半分は、あくまで周囲がありそうな妄想を勝手に囁いているようなものよ」
秀玲がこのように語る。あるところは真実だけれど、あるところは嘘である。そして真実と嘘が混じり合っていると、それは真実よりも真実っぽく聞こえるのだとか。なるほど、そこは雨妹もわかる気がする。
「伊貴妃が引きこもりだと言われるのはね、彼女が表舞台に立つ必要がないからなの」
しかしこの言葉には、雨妹は目を丸くする。表舞台に『立てない』ではなく、『立つ必要がない』とはどういうことか? 首を捻る雨妹に、秀玲が述べる。
「何故って、伊貴妃は最も重要なお役目を果たしたのだから、それ以上を求められても、それに応える必要性なんてないのよ」
そう断じる秀玲を、雨妹は答えを探るようにじっと見つめた。
「お役目、それって、太子を産んだことですか?」
「その通り」
雨妹の答えに、秀玲は満足そうに微笑む。
「先の戦乱が起きたそもそものきっかけは、当時の皇帝陛下が太子を決めないままだったせいで、誰もが皇帝位を望める状態だったからだと言われているわ」
このように秀玲が歴史を振り返る。雨妹も、本来は各州の大公家で皇帝位を持ち回りにするという約束だったと、太子の口から聞いた話だ。




