593話 そもそもの後宮事情
けれど燕女史の症状を考えると、遅かれ早かれ陳に声がかかった気がしなくもない。この後宮内では、陳以上に知識豊富な医者はいないと雨妹は思っている。その陳のためにも、状況をもっといいものに整えてあげたい。
「立彬様は、なにか最近の燕淑妃宮について情報がありませんか?」
雨妹はそう聞いてみるものの、しかし立彬の表情は曇っている。
「私から話せることは、さして多くはない」
「そうですかぁ」
この立彬の答えに、雨妹はさしてがっかりはしていない。揚州に立勇として出かけてから帰ったばかりなので、有能な彼といえども後宮の情勢を全て把握しておくのはさすがに難しいのだろう。なんて雨妹は思っていたのだが。
「お前が考えているようなことではない」
立彬からそのように言われ、雨妹は目を瞬かせる。
「……というと?」
「これは明賢様と燕淑妃の関係性の問題なのだ」
これに雨妹は首を捻り、「う~ん」と思案する。
「太子殿下が皇帝陛下のお妃様に近付くのは良くない、みたいなことですか?」
「いや、そうではないのだ」
雨妹なりに導き出した答えを立彬は否定してから、声をひそめる。
「正確には明賢様というより、ご生母であられる伊貴妃との関係だ」
「伊貴妃、ですか」
雨妹にとって、こちらもこれまで全く関りがなかった伊貴妃であるが、表舞台に出ない引きこもりの貴妃だというのを先日聞いたのは、この立彬の口からである。
「伊貴妃が表舞台に出ないということは、本来ならば太子の生母として、そして四夫人の筆頭として行うべき役割を、行えていないということ」
後宮内で妃たち相手に序列を確認させる社交をしたり、次期国母として太子や皇帝の外交に付き添ったり、他にも様々に役目があるのだという。しかし伊貴妃はそれらの全てをやっていないわけで。
「それらの全てを代わりにこなしてくださっているのが、燕淑妃宮なのだ」
「なるほど」
大いに納得の理由である。
――そりゃあ伊貴妃の息子である太子は、ばつが悪いよね。
深く頷く雨妹だが、事はそれだけではなかった。
「それだけではない。後宮全体の管理も燕淑妃宮が行っている」
これを聞いて、雨妹はきょとんとしてしまう。
「え、皇太后陛下とか皇后陛下はどうしたんです?」
雨妹が思わず突っ込むのに、立彬は眉間に皺を寄せる。
「あの方々は、贅沢を享受することしか興味がない」
皇太后も皇后も、客人を狭間の宮で派手な宴で持て成すことは積極的であっても、それ以外のことについては全く興味を示さなかったという。その結果、気が利く人が全てを背負うことになってしまうという負の循環である。
「それ、燕淑妃宮の仕事が多すぎじゃないですか?」
雨妹は心配せずにいられない。今聞いて想像するだけで、恐ろしい仕事量である。
では、これまで後宮で催された花の宴などの裏方仕事なども、ほぼ燕淑妃宮が取り仕切っていたのだろうか? そのくせ皇太后と皇后は主役面をして客をもてなすのだから、さぞかし腹が立ったことだろう。
――そりゃあ、雰囲気があんなバチバチになるか。
周囲に「余計な仕事を増やすなよ!」と威嚇して回ることくらいはしても、許されるだろう。あの燕淑妃宮の人たちの独特な雰囲気の根源に思い至ると、雨妹も理解できる。
「今も燕淑妃宮が後宮の全てを行う現状は変わらぬが、皇太后陛下がいなくなった分の負担は減ったかもしれんし、皇后がまだいるので同じかもしれん」
立彬の考察に、雨妹は燕淑妃宮の人たちが皇后宮の人たちとやり合った現場を思い出す。
「減りましたかねぇ?」
雨妹は唸ってしまう。あの皇后宮の人たちの堂々とした態度だと、皇后が花の宴の事件で大人しくなったとは考えられず、楽になったという意見には頷けない。