589話 速やかすぎるホウレンソウ
「「……!?」」
雨妹と陳は椅子に腰かけている存在にギョッとしつつも、即座に揃って叩頭する。
「よい、楽にせよ」
するとその立派な椅子の人物、すなわち皇帝から声がかけられた。
――まさかの、国で一番偉い人が先に来て待っていたとか!
背筋がヒュッとするので本当に勘弁してほしい。雨妹がそう思いながらも陳と揃ってそろそろと顔を上げると、父がこちらを見下ろしている。
この場にいるのは父と、雨妹たちを連れてきた先程の宦官が傍に控えているのみだ。他の偉い身分の人は見当たらないのは、雨妹はともかくとして、陳が萎縮しないようにという配慮かもしれないし、人払いが必要な話題ということかもしれない。しかし皇帝という圧倒的に偉い人を目の前にしているので、その配慮がどれほどの効き目があるかは謎であるので、目的は後者である可能性が高い。
「まずは、よく来た」
その皇帝たる父が早速口を開いた。
「燕淑妃宮の動きには注視しておったところだ。そなたらと接触したので、一応話を聞きたく思うたところである」
――やっぱりか。
呼び出しの目的を聞いた雨妹は陳と視線を交わすが、父はさらに告げる。
「驚いたぞ、あの燕淑妃が貧相な格好をして出ていったと聞いてからなにかと思えば、まさか医局へ入ったとは」
これには、雨妹と陳は二人で「でしょうね」と心の中で唱和できた気がする。
状況を把握しているということは、やはりあの場には皇帝側からの監視役がどこかにいたのだ。そしてその監視役は、あの燕淑妃主従の露払いまで自主的にやっていたのだろう。案外それがわかっていたから、あの郭比もたった一人で主を連れ出せたのかもしれない。
「そうまでして動くのだ、よからぬことではないかという疑いが浮かんでしまうでな。一体何用であったのだ?」
「発言を許可します、お答えなさい」
そして皇帝直々に問われ、宦官がそう念を押してくるのに、陳は微かに胃が痛そうな顔をしたものの、大きく深呼吸をしてからさらに少し顔を上げた。
「申し上げます。本日訪ねてこられたお方は、宮の女官の治療を願って参られました」
「女官とは、燕女史か?」
陳の答えを聞いた父の口から、即座にその名が出た。燕淑妃宮で女官といえば、皇帝であっても即浮かぶのは彼女であるらしい。雨妹は知らなかったが、それだけの有名人なのだ。
「はい、しばらく前に偶然にもこちらの宮女が、かのお人が具合を悪くしていたところに偶然居合わせ、医局へ連れて参ったのです」
陳が雨妹を指し示しながら語るのに、父の眉が微かに上がった。
――いや、必要な説明だけれども!
これで雨妹ががっつり関与していることが露呈してしまったではないか。けれど、父が微かに面白そうな顔をしているように見えたので、少なくとも叱られる気配はないと思いたい。
「具合が悪いとは、病か怪我か、もしくは毒のいずれか?」
父は女官の体調の詳細を求めた。先だってはケシ汁騒動みたいなことがあったし、具合が悪いとなると陰謀をまず疑ってしまうのがなんとも物騒なことだ。だがそれにも陳は冷静に答える。
「病でございます。しかし感染する類のものではなく、生まれ持っての肉体の不調と申しましょうか。とにかく心身が気怠く感じられるのです」
陳はわかりやすく、そして穏やかに聞こえるように話すが、甲状腺の炎症を説明するのはなかなかに難しい。炎症箇所が目に見えないからだ。喉ぼとけの腫れは、それこそ知識のない者には呪いに見えることだろう。