583話 医者の鑑
陳の発言は尤もだ。この場でなにを話し合ったとしても、患者本人がいないのは問題だろう。患者本人を部外者みたいにして治療計画を進めるなんてことはできない。治療は患者本位の行為なのだから。
「なにより、姐姐様に『健康になりたい』と願ってもらわなければ、治療は失敗に終わります。ですから、姐姐様自らの足で進んで医者の前に立っていただきたい」
そう言い切った陳に、彼女は目を瞬かせた。
「まあ……」
微かに戸惑うような様子を見せる彼女の一方で、門番の人はニヤリとした。
「ほう、すなわち、かの者を捕らえて突き出すのでは駄目だということだな?」
「そうですな」
門番の人がちょっと物騒なことを言ってくるのに、陳はそれについてはなにも顔に表さずに返事をする。なんという聞き流し力だろうか。
――さすが陳先生、医者の鑑だよ!
けれど、この陳の態度を「無礼である」とか「とにかく薬を出せばいいのだ」とか言う偉い人たちもいるのが、事実なわけで。雨妹がどうなることかと、一人胸をドキドキさせていると。
「なんとなんと」
門番の人は、楽しそうに笑っているではないか。
「これはこれは、主、よきご縁を引き寄せたようでございます。この者は間違いなく、しかと医者であるようです」
「……そう?」
彼女が微かに首を傾げるのに、門番の人が大きく頷く。
「ええ、安易に『了』と答える医者ですと、適当なそこいらのなんでもない雑草を『薬』と申して出してしまうこともあります。かように頑迷であるからこそ、信頼できましょう」
門番の人は医者についてなんとも当たりがきつい言いぶりだが、確かに行いが悪い医者にはそうした輩もいるだろう。
――けどそういえば、あの女官様は道士でもあるんだったか。
燕家の娘が道士となるくらいなので、ひょっとして燕家は道士になじみ深い家柄なのだろうか? 道士は医者としての仕事もこなすことが多いため、医者への見方はその筋からのものかもしれない。
しかしこの陳のお願いに、彼女はそっと目を伏せた。
「わたくしが言ったところで役に立たないもの。皆に任せます」
彼女がまたあの悲しい言い方をするが、そういえばこの話の最中にこの門番の人が来たのだったか。それで話が流れたようだったが、またここに戻ってしまった。
「さようなことを仰いますな、主のお言葉こそ真に心に響くでしょう」
「……わたくしの顔を見ても、不快にさせるだけだわ」
門番の人が彼女を励まそうとするが、彼女は聞く耳を持たない。
『わたくしがわたくしを嫌いですもの』
あの時の彼女のこの言葉が、雨妹の頭の中でぐるぐると巡る。
「あの!」
そして気が付けば呼び掛けていた雨妹と、彼女の視線がバチッと合う。
「ひぅっ!?」
彼女は悲鳴を上げて両手でギュッと頭を抱え込む。これもまさしくふりだしに戻るである。
「……なんかすみません、黙ります」
雨妹はことごとく彼女と相性が悪いらしいと、再び陳の影で石のように沈黙するかと思っていると。
「主、なにを恐れられるのか」
門番の人が彼女を叱咤した。
「この者はあの時親切にも宮まで知らせてくれた本人ですので、怖い相手ではございませぬ」
「そう、なの?」
門番の人の言葉に、彼女はそろりと頭を上げる。
「さてはあの時、話をきちんと聞いておられなんだな? 使いは青い目の宮女であったと申しましたぞ?」
「……そう」
門番の人がそう述べるのに、彼女は気まずそうに視線をずらす。
――なんだなんだ?
どういう話なのかと様子を窺う雨妹に、門番の人が苦笑して話す。
「主はそなたに怯えたであろう? 幼少の頃、皇族下がりに嫌な目に遭わされたようでな。それ以来、青い目が怖いらしいのだ」
「ああ、それでですか!」
怖がられている原因が自分の行いのせいではないと知れて、雨妹は安堵する。