581話 来ちゃった
「陳先生、もしかして……」
「ああ、なぁ……」
陳も雨妹と同時に思い至ったようで、悟りを開いたような顔になっている。
雨妹が二度遭遇したあの燕淑妃宮の女官は、許から聞いた話では淑妃の姉君だということではなかったか? ということはそう、雨妹の推測が正しければ、この目の前にいる人の正体は燕淑妃本人ということになる。
なんということだろう、頑張って避けようとしていた人があちらからやって来るとは。
――けど、あの女官様と似ているかな……?
雨妹は頭巾の下からなんとか目を凝らして観察するが、この人の圧倒的な美人力のせいで似ているとかそういう細かな差異を認識できない。美人過ぎる弊害があるのだという、新発見をしてしまった。
いや、それよりも、雨妹はまた燕淑妃宮に向かって走るべきだろうか?
――いやいや、本当に淑妃が一人でこんなところまで来るはずがないって!
きっとどこかにお付きの人がいるはずだし、むしろいてくれないと困る。
しかし、それなのにこの人が敢えて一人でいたということは、陳とどうしても話をしたかったということなのだろうか? けれど話をしたいだけならば、陳を自分の宮に呼べばいいことだ。そこを、こんなにプルプルしてまで自分が乗り込むことを選んだということになる。
いや、プルプルの原因の大半は雨妹が怖いからかもしれないけれども。それか、医局の玄関先でのあの様子からすると、元々が超絶に人見知りする性格なのかもしれない。それなのに自らやって来る方を選んだのは、宮で会話を聞かれたくない人がいたのだろうか?
――例えば、そのお姉さん本人とか?
そうだ、この人が本当に燕淑妃であれば、医者を呼んであの女官に「薬を飲んで不調を治すように」と命じればいい。それでは駄目だったのだろうか?
いやいや、それよりもこの人が燕淑妃だと、本人に確かめて特定するべきだろうか?
――でもさぁ、それをするのも、なんか気の毒になるっていうか……。
この人は「バレていない!」と思っているからか、このようにプルプルしながらも普通に話してくれているのである。身分が露呈したと知れば淑妃としての立場に戻り、ツンとして黙ってしまうか、もっとプルプルしてしまうかもしれない。
――どうしよう、今までで一番対応が難しい人が来たかも……!?
などというように、雨妹が一瞬で猛烈に思考を巡らせているその間に、陳も考えていたようだ。
「私はあなたの仰るその姐姐という方に、思い当たるところがあるといえばあります。あなたはその方を、治してさしあげたいのですね?」
陳はどうやらこの人の正体をまるっと無視する方向で行くようで、なんとも胆力のある選択である。
「ええ、そうです」
この陳の問いかけに、彼女は微かに目を伏せてこくりと頷いた。
「姐姐がわたくしを厭うているとしても、わたくしは姐姐が大事なのです」
「ふぐっ……!」
雨妹は変な声が漏れそうになるのを、一生懸命耐える。なんだか今、ややこしいことにさらにズブッと片足が嵌った気がした。
――そういう余計なポロリはいらないからね!
なんだろう、若干天然気質な人である気がしてきた。
それにしても、許の話しぶりだと燕淑妃と女官の姉妹は仲がよさそうだと感じたのだが、当人の口から違う話が出てきたのは気になる。
「おや、姉君と仲がよろしくないのですか?」
陳がそうした燕淑妃の事情を知っているのかは定かではないが、普通に話に突っ込んでいくなんて心が強い。だてにこの後宮で医官をしているわけではないようだ。
彼女はこれに「不躾だ」と怒ることをせず、悲しそうな顔をした。
「……きっと、姐姐はわたくしを嫌っていますわ。だって、わたくしがわたくしを嫌いですもの」