574話 ドキドキの現場から
皇后は大人しく過ごすどころか、精力的にあちらこちらに顔を出しているという話を、雨妹にも聞こえてくる。今もああして、皇太后派ではあったが処罰を免れた妃嬪たちを回って、自分に従うように圧をかけているのだろう。
――皇后陛下にはある意味、我が世の春と言えなくもないもんねぇ。
皇后の視点で言えば、皇太后がいなくなってうるさく命令する存在が消え、目の上のたんこぶが無くなったわけだ。皇后が都合の悪いことをスポンと忘れてしまえる人であれば、笑いが止まらないかもしれない。
それはともかくとして、雨妹は今の自分の位置を確認する。
「……微妙な距離だなぁ」
ここにいると回廊から存在を認識できるのか、ちょっと考えるところだ。それでいて今から重たい荷車を動かして移動して間に合うのか、それもまた微妙である。
―― 一応、頭を下げておくか。
皇后が今の後宮で一番身分の高い女性には違いないので、雨妹は念のために軽く身を伏せるようにして、早く通り過ぎてくれないかと願っていると。
「……」
皇后宮の一団とは違う方向から、別の集団が移動してくる物音が聞こえてきた。こちらはおしゃべりがなく、揃った足音だけが響いてくる。
――あれ、これってしばらくここから動けなくなった感じ?
というか、足音の方向的に皇后の集団と遭遇しやしないだろうか? 雨妹はちょっと心配しながらその足音の方を気にする。それにしても、しゃべり声が聞こえず足音だけの登場は、なんとなく覚えがあるのだが。雨妹はなんとか微かに顔を上げて上目使いになり、回廊の様子を窺おうとする。
するともう一方から現れたのは、やはり思った通りだった。
――燕淑妃宮の人たちだ!
その中心にいるのはあの女官で、燕淑妃の姉ではないかという情報を仕入れたばかりだ。
「うわぁ……」
雨妹は一人ドキドキしてしまう。今や後宮内で腫れもの扱いの皇后宮と、今が勢い絶好調らしい燕淑妃宮である。一体どうなるのかと、この場に居合わせた誰もがきっと雨妹と同じように胸を押さえていることであろう。
――やっちゃう、正面からやり合っちゃう!?
このまま両者が激突するのかと、なにかを期待したいような、期待してはいけないような、悶々とした気分で雨妹が両者の様子を窺っていると。
「……お?」
前方にいる皇后宮の一団の存在を知ったらしい燕淑妃宮側が、少し離れたところで足を止めた。どうやら皇后宮の一行をやり過ごしてから通過するようだ。ここで強引につき進むことにさほどの利点もないし、賢明な判断だろう。
――大人だ、譲る心の余裕だよ!
皇后と淑妃では皇后の位が上だが、皇后宮の下っ端と淑妃宮の筆頭女官では、どちらを上と考えるかは難しいところで、淑妃宮の筆頭女官が「頭が高い!」と言うことだってできるのだ。けれどそれを、道を譲る気持ちの余裕があるのだと知らしめることにもなる。それは身分よりも、人としての位を上げる行いであろう。
淑妃宮側の配慮で、揉め事を回避できるかとこの場に居合わせた雨妹以外の他の面々もホッと安堵の息を吐いたのだが。
クスクスッ
しかし皇后宮の一団はニマリと笑うと、そんな空気を無視するかのように、燕淑妃宮の人たちが待機している方に押しかけていく。
――行っちゃったぁ~!?
皇后宮の一団は元々そちらに用事があるのか、そんなものはないけれどあえて喧嘩を売りに向かっているのか、そこは判断に難しい。だがおそらく皇后宮側は、どうあっても淑妃宮の人たちに頭を下げさせたいのだろう。