564話 知らせてあげた
到着した燕淑妃の宮の前で、雨妹は緊張していた。ある意味、太子宮にお邪魔する時よりも緊張しているかもしれない。
雨妹の脳裏に楊の言葉が再生される。
「大丈夫、ちょっと話をするくらいでとって食われたりはしないさ。宮の門番に『医局に寝ている』とだけ伝えればいい。厄介だからどこで会ったかは言わずに、『あんまり驚いたから覚えていない』で言い通すんだよ」
下っ端掃除係が高貴な女官様に出会って驚いて、なにはともあれ動いた結果ここにいるのだと、とにかくそう言い張るのだ。
――よし、私はやれる子!
ひそかに気合を入れた雨妹は、実はずっと不審そうにこちらを窺っている、棒を持って立っている門番らしき女に近付く。今まで門番は宦官である場合が多かったが、この宮は女がやっているようだ。
「あのぅ、ここが淑妃様の宮で合っていますか?」
雨妹は「気弱な下っ端」という設定で門番たちに話しかける。
「そうだが、そなたは何者か?」
まるっきり不審者を警戒する口調の門番に、雨妹は「ああよかった、合っていた!」とあからさまに安堵してみせた。
「あの、私は掃除係の下っ端です。その、先程私、具合が悪そうな女官様がぐったりしているのを見つけまして。その方を医局へ連れて行ったのです。そうしたらそこの先生が、こちらの女官様ではないか? と仰いますので」
「なに!?」
雨妹の説明に、門番が顔色を変えた。
「そのお方は、どこにいらしたのか!?」
「ひっ!?」
唾を飛ばさんばかりの勢いで詰め寄る門番に、雨妹は演技ではなく悲鳴を漏らす。
――怖い、顔が怖いって!
この門番は雨妹が発見した女官の風体やら名前やらを尋ねないが、普通なんらかの詐称を疑うものだろうに。この様子では行方知れずで捜索されているのでは? という疑念が当たっていたらしい。
「倒れておられたのがどこだったかは、すみません、どのあたりだったかは覚えていないのです。ひと目でお偉い女官様だとわかる格好でしたし、私がお目にかかれるような身分のお方ではないので、驚き過ぎて前後の記憶があやふやだというか、本当にびっくりしてしまって」
怯えて見せる雨妹に、門番も勢いよく詰め寄り過ぎたと思ったらしく、姿勢を正した。
「なるほど、さもあらん。お前のような身分で急にお偉い御方を見かけると、思考が止まってしまうのも理解できる」
何度も「驚いた」と繰り返す雨妹に、門番は「下っ端掃除係ならそうだろう」と頷く。
――よし、いいぞ!
あっさり信じてくれた気のいい門番に、雨妹は密かにこぶしを握り締めた。
「それにしても医局か……誰か探しただろうか?」
門番が後半をボソッと小声で囁いたのを、雨妹は聞こえなかったフリをして話を続ける。
「医局の陳先生は私もよくお世話になって親切な先生なので、きっと良くしてくれると思ってお連れしたのです」
「そうか、それは当宮の者が世話をかけた」
そう言って門番が雨妹に礼の姿勢をとった。
門番が宮の中の事情に通じているような態度からすると、この人はひょっとして普段は門番ではないのかもしれない。緊急事態の中で誰も立ち入らせないように、選ばれて臨時の門番をしている可能性がある。
つまり、あまり長居をしていい場所ではない。
「では私はこれで!」
雨妹は話を切ると、晴れやかな顔で来た道を戻っていく。
――これで厄介事回避だ!
あの女官の体調は気になるが、そこは陳がちゃんと説明してくれるだろう。あの女官には名前も聞いていないし、雨妹から名乗ってもいないので、これっきりになることだろう。念のために陳のところにもしばらく顔を出さないようにしておけば、きっと雨妹の存在も忘れられるはずだ。なんて風に考えていたのだけれど。
それから数日後のこと。
「……あれ?」
またもや掃除帰りにその女官と出くわすだなんて、思ってもいなかった。