552話 父、皇帝なり
なんと、ここに皇帝がやってきているらしい。
雨妹は宦官の杜としてならばともかく、下っ端宮女が皇帝と顔を合わせられる身分なわけがない。というか、朝一番で尋ねて来るなんて、父は王美人が好き過ぎではなかろうか?
――え、私ってばどうするべき!?
この部屋からサッサと出て掃除に向かうべきか。それも間に合わないならば、どこかへ隠れるのがいいか? 雨妹が一人ワタワタとしている傍らでは。
「……」
莉が突然の父親登場に、気持ちが追い付かないのか固まっている、そんな中で。
「皇帝陛下がいらっしゃいました」
当の皇帝が、こちらの心情が落ち着くのを待たずに登場してしまったので、雨妹は莉と並んで慌てて叩頭する。というか、皇帝姿の父との対面は、いつぶりだろうか?
雨妹が顔を伏せつつも懸命に様子を窺っていると、父は供を部屋の外に待たせ、一人で部屋に入って来ると、奥にある立派な椅子にドカリと座った。なるほど、雨妹は全く家具の配置を気にしていなかったが、あれは皇帝専用の椅子なのか。あのようなものが置いてあるところを見るに、父はここへの引っ越し後にもかなり頻繁にこの部屋で王美人と一緒にお茶を飲んでいるようだ。
「まあ陛下、ずいぶんお早いですこと」
そしてこの状況にも全く構えることなく自然体な王美人には、皇帝の突撃訪問は慣れたことであるらしい。
――さすが王美人、寵愛深い妃なだけあるね。
雨妹が王美人に感心していると、その頭上に声が降ってきた。
「莉、そして張雨妹、面を上げよ」
父から直々に声をかけられ、雨妹は莉と共にそろそろと顔を上げる。
皇帝の顔をした父は、まず莉に声をかけた。
「莉はいつもなにがしかの稽古中とやらで、顔を見るのはここに連れてきた時ぶりか。息災であったようでなにより」
「はい、皇帝陛下にお会いできて、とても嬉しく思います」
父からの言葉に、莉はド緊張をしながらもなんとか挨拶を返せている。
――なるほど、莉公主はずっと皇帝陛下を避けていたんだね。
確かに皇太后預かりとなるまでは、母親の手で部屋に閉じ込められるようにして育てられ、滅多に人と会わずに過ごしてきた莉なので、人と面会するのに慣れていない。それがいきなり皇帝と頻繁に会わされても恐怖でしかなく、そのあたりを王美人も配慮したのだろう。今日はその皇帝との面会解禁を企んで、莉の緊張緩和剤が、雨妹の存在といったところか。
この父娘の対面に雨妹がほっこりしていると、話が雨妹の方に飛んできた。
「そして張雨妹、友仁のための臨時の医官助手として勤めたこと、大儀であった。友仁が無事に戻ってきたことが、そなたの仕事の成果であるな」
「お褒めの言葉、ありがたく思います」
雨妹は緩みかけていた表情を慌てて引き締め、礼の姿勢を取る。
これで雨妹たちの出番は終わり、部屋から退出することになると思ったのだが。
「ところで雨妹、お主に問いたいことがある」
なんとそのように言われ、緊張が極まっている莉だけが席を外れ、雨妹はこの場に留まることになった。
――なにか、しなくちゃいけない話とかあったかな?
いや、報告は今回の道中で友仁の側近に取り立てられた胡安や、明がしただろうし、雨妹でないとわからない話などなかったはず。一体なんだろうか? と首を捻っていると。
「話がし辛いな、席へ着け。朕も茶が飲みたい」
父は雨妹に指示をしてから、王美人を見やる。
「はい、陛下。ちょうどこちらの雨妹より、揚州土産の茶葉をいただきましたのよ」
王美人が土産話の中で手渡していた品を、父に向けてかざしてみせた。あれは幡の市場で買った花茶の茶葉で、いくつかの種類の茶葉の詰め合わせだ。
「ほう、ではそれが飲みたい」
「ふふ、そうしましょう」
王美人が新たな茶器を用意して、お茶を淹れる準備をし始めた。




