516話 恐ろしいこと
雨妹は次第に泣きつかれて声が小さくなってきたジャヤンタに、問いかけた。
「あなたは、本当に王太子であり続けたかったのですか?
自身の本性を偽り続け、誰からも理解されないままに」
雨妹がさすっている背中が、微かに震えた。
「ありのままの自分で生きたいと、少しも願わなかったのですか?」
重ねて問う雨妹に、ジャヤンタが今度は石のように固まってしまう。
これは、幼少期から余程厳しく教育されてきたのだろう。
宜の国に都合の良い王太子であるようにと。
――まったく、王様候補なんてなるもんじゃあないね。
雨妹はつくづく思うのだけれど、ここは宜ではなく崔である。
ジャヤンタが誰かの耳目を恐れる必要はない。
「ジャヤンタ様、ここに宜の間者などいませんよ。
本心を話したところで、なにも起きません。
私たちも、別に今からあなたが話す内容を、宜に教えてやる義理などこれっぽっちもありません」
雨妹が穏やかに話しかければ、呂の通訳だけではなく、言葉の温度は伝わるはずだ。
「リフィさんを遠ざけたかったのは、リフィさんの虐待から逃れたかっただけなのですか?」
三度の問いかけで、ジャヤンタはやがて口を開く。
『私は恐ろしい……』
「なにが恐ろしいのですか?」
呂を介して伝えられた内容に、雨妹は頷いて先を促す。
『死というものが恐ろしい。
この我が手が、大勢を死地だとわかっている場所へ行けと命じるのが恐ろしい!
己が死へと導いた者らが魂と化して、いつか復讐に来るのではないかと思うと、夜も眠れぬ……!』
腹の底から絞り出すように吐露したジャヤンタは、自由になった片手で床をかきむしる。
『だがそれは、王太子として言ってはならぬことよと叱責される。
弱き王子が生きていては害悪だと言われ、神殿で神に祈り、己の罪の許しを請うことも認められぬ!
この片腕を失ったとわかった時、これであの者らの恨みが幾ばくか晴れるのかと思うと、少し気が楽になりもした!』
言っていることがとても病んでいるジャヤンタであるが、発言内容は真っ当な人間らしい主張である。
思えばジャヤンタはこれまで雨妹たちの前で、片腕を失ったことを嘆いたりしたことがない。
それよりも己の待遇についての文句ばかりだったが、普通に考えても痛かったし不自由だっただろうに。
まさかそれが、ジャヤンタなりの死者への贖罪であったとは。
――こっちも、かなり拗らせているなぁ。
けれど戦争商売で成り立っている宜であるので、王太子が「命大事に」と唱えだすことは、商人連合とその敵対勢力の両者にとって、ともに不都合だったのだろう。
だが今の言葉のおかげで、ジャヤンタの今後をどうするべきかが見えてくる。
そして、今の一連の会話を黙って聞いていた友仁であったが。
「なんだか、気の毒だ」
しょんぼりとそう告げた友仁に、今のジャヤンタの意見をどれ程理解できたのかはわからないが、リフィを悪く言われた時の嫌悪が消えて、彼への同情が勝ったようだ。
「死ぬのが怖いのは、誰でもそうじゃないの?」
友仁から自信がなさそうに窺われた明が、大きく頷く。
「死ぬことが恐ろしいなど、当たり前のことです。
恐ろしいからこそ、我々兵士は戦うのですから。
死を恐れないのであれば、皆戦場に裸で寝転びますよ」
「ふぅん?」
明に言われたことを、友仁が首を傾げて考えているが、時折口元をふにふにさせている。
戦場に裸で寝ころぶ図の非現実さに、笑いが込み上げてきたのかもしれない。
雨妹もよくよく考えると、明の言うことがわかる。
――死ぬのが怖くなかったら、負けることにも頓着しなさそうだもんね。
すごく強い兵士の表現で「死をも恐れぬ」と評することがあるが、それはあくまで「死すらもその人から逃げていく」という比喩であるというわけだ。
「何故そんなに嘆くことがあるのか?
まったく、宜とはおかしな国だ」
胡霜の方は、心底理解不能だと言わんばかりに眉をひそめている。