515話 心折れて
誰も助け起こさないので床に転がったままであるジャヤンタへ、雨妹は身を屈ませて尋ねる。
「この邸で、リフィさんを悪者に仕立てて追い出せば、自分は前の王子様生活に戻れるとでも思いましたか?」
『うるさい、うるさい、うるさい!』
呂はどんな風に通訳しているのか、ジャヤンタが怒りで頭が煮え立っているような表情である。
――図星だったか。
雨妹はあと一押しかと、ここでさらに追い打ちをかけた。
「私はもう一人、国を追われた次期国王であった王子という方を知っています。
その方もまあ結構傲慢な性格だったようですけれど」
それでもあの王子――ダジャルファードは己の国の民、そして弱き者を助けるという心だけは、最後まで失っていなかった。
そうでなければ、都へ行くのに子どもを連れてあの過酷な山越えなんてせずとっとと逃げ、今頃山賊にでもなっていたはずだ。
「あなたには、その失う良心をそもそも持っていないのですね。
宜の民はなんと哀れなことでしょう」
『きさまァ!?』
ジャヤンタが転がったまま片腕を伸ばし、雨妹の足を掴もうとしたのだが、その手を寸前で呂が踏みつけた。
『我らが宝珠に牙を向けるとは、命が要らんのだな?』
そのまま呂が隠し持っていた短剣をジャヤンタの首元に押し当て、うっすらと血をにじませている。
『……っつ!』
ジャヤンタは首元の痛みに身を引こうとして、呂が片腕を踏みつけているせいで上手くいかない。
そのまま呂が短剣をもっと強く押し当てれば、殺されてしまうだろう。
そんな恐怖がジャヤンタの心の堰を決壊させたようだ。
『私が…… 一体なにをしたというのだ」
ボソリとそう漏らしたジャヤンタは、やがて涙をポロポロと零し出したものだから、雨妹はもちろん、呂もギョッとする。
『何故私がこんな目に遭うのか、誰もかれも、そんなに私が憎いのか!?』
ジャヤンタがそう喚いたと思ったら、わんわんと大声で泣きだしたではないか。
「なんとまぁ」
明が剣を持つ手を降ろし、呆れたようにジャヤンタを見つめている。
胡霜は納得いかないという様子で、棍をブンブンと振っていた。
そんなジャヤンタを、雨妹は静かに見守る。
――本当はこの人、泣き虫だったのか……。
ジャヤンタは王太子をやっていた時に、これ程まで意地悪を言われた経験がなかったのだろう。
王太子であれば、直に話せる相手だって限られてくるはずで、全て部下を介して会話させればボロが出ることもないのだから。
つまり、これまで己の優位でしか会話したことがなかったのだろうジャヤンタの、不利な議論への圧倒的経験不足である。
心をポッキリと折られたことで、隠していた本性が表に出てきたのだろう。
泣き慣れていないジャヤンタはたまに咳き込んでしまい、苦しそうだ。
「愚痴も泣き言も、ずっと隠していると病気になります。
けど、あなたはこれまで泣く場所を与えてもらえなかったのですね」
雨妹はそう声をかけながら背中をさすると、呂へ視線をやって、彼にジャヤンタの手を踏みつけている足を退かせる。
臆病者の王太子であるジャヤンタと、その婚約者であり、母国で邪険にされながら育った姫であるリフィ。
この二人は、実は「自分に自信がない」という点で似た者同士だったのだ。
この両者は違う出会い方をしていれば、互いを高め合って良い関係を築けたのかもしれない。
けれど現実では、今のように最悪の状況に至っているというわけだ。
ジャヤンタもリフィも、あと少しだけ己の心を素直に表す勇気さえ持っていたら、違う未来を掴めただろうに。
リフィはジャヤンタを妬み、ジャヤンタはリフィを妬んでいたなんて、まさしく「隣の芝生は青い」である。
ただリフィとジャヤンタが違うのは、リフィは言葉を覚えお茶を極めようと努めて、愛され認められようと努力をしたことだ。
そしてそんな彼女の努力する姿が、ジャヤンタには恐ろしかったのだろう――己はまやかしの強さしか持っていなかったから。




