484話 まさかの事態
この旅で雨妹に万が一のことがあれば、皇帝の怒りを真っ先に受けるのは警護の責任者である明であろうに、こうまできっぱりと言い切るとは。
「そのお考えの根拠は?」
「もちろんある」
立勇の疑問に、明はそう言って頷いた。
「一時期、沈殿下が我が家に頻繁に出入りしていたことは話しただろう」
そして話が急に変わるのに、立勇は戸惑いつつも黙って聞く。
「その時にやけに婆に懐いてな、独り立ちする際に『一緒に来てくれ』と熱心に誘っていた程だ」
「あの家人殿を?」
立勇は目を見張る。
明家の老女は気難しいというか、なにを考えているのか傍から見ていて理解するのが難しい。
その点は雨妹と似ているとも言えよう。
だが立勇があの老女の顔を思い浮かべると、ますます不安が増すのは何故だろうか?
ちなみにこの不安は、先程までとは違う種類のものである。
それでもこの明を育て上げた強者なので、頼りになる人であるのは確かだろう。
このように考えている立勇に、明が渋い顔をさらに渋くして告げた。
「それから沈殿下は挙句の果てには、婆に求婚し、己の妃になれと望んだのだよ。
しかも九回も繰り返し、現在もそれは続いている」
「はぁ!?」
驚愕の事実に、立勇は思わず叫ぶ。
――あの家人殿を、妃にだと!?
思いもよらぬ事態である。
雨妹が沈からまるで妃候補であるかのように振舞われた時よりも、衝撃が強い。
しかも九回もというのだから、気の迷いなどではないということになる。
「こら、大きな声を出すな!」
そこへ明が立勇に注意した。
「これをあまり言いふらせば、うちの婆が猛烈に嫌がる。
お前も他に言うなよ、婆を怒らせるのだけは御免だ」
明はそう言うとぶるりと身を震わせ、酒をグビリと呷る。
「それは、言われるまでもありませんが……何故に?」
立勇は聞かずにはいられず、様々な疑問を端的な言葉にした。
「知るか、極端な年上好みなのだろうよ」
これに明は思考を放棄するかのように、そう言い捨てる。
ずいぶんな年の差であるし、人の好みは千差万別とはいえ、特殊な好みの部類に入るだろう。
そして現状を思い出し、あの老女は沈の申し出を断り続けたのだとも理解できた。
彼女ならば「顔が好みではない」などとあっさり言いそうだ。
しかし、立勇はここで恐ろしい想像に至ってしまう。
「……まさか!」
「気付いたか」
顔色を青くした立勇に、明が深刻そうに俯いた。
そう、先程立勇とて、雨妹とあの老女は似ていると考えたではないか。
まさか沈は、雨妹をあの老女の「代理」にしようとでもいうのか?
「かの殿下は、破滅志願者ですか?」
言わずにはいられない立勇に、明も重々しく頷く。
「沈殿下とうちの婆についてのことは、陛下とて承知している。
だがそこから雨妹に目が向くは思いもよらず、まさかの事態よ」
本当に「まさか」である。
あの老女と比べれば、雨妹の方が年頃はまだ合うかもしれないが、それでもなんという怖いもの知らずな行為なのか?
そしてこれまでのことを思い出し、それでも立勇の中には未だ不可解さが残る。
「あれでは雨妹相手には、悪手に過ぎませんか?」
沈のこれまでの行動に対する違和感というか、気持ち悪さのようなものはなんなのか?
立勇のこの疑問の答えもまた明が持っており、声をひそめて語った。
「それは、互いの『雨妹』という人物像の違いだと思うぞ。
雨妹とあのリフィの置かれた立場が似ていることは、沈殿下とて気付いているだろう、あれで情報に通じているお人だ。
しかし、視点の重心が違う」
「重心、ですか」
明の言わんとすることがわからず、立勇は眉をひそめる。
そんな立勇に明が続けた。
「沈殿下はリフィという娘を通して、雨妹を見ている。
リフィと似た存在として雨妹を把握しているから、『所詮最後には権力に追従するだろう』と舐めてかかっているのだ」
なんとも傲慢な考えだが、皇子の意見としてはそう不自然でもない。
皇子とは、たいていのことが思うままになる身分なのだ。
「一方で、我々は雨妹を通してリフィを見ているだろう?
この違いは些細なようで大きい」
「なるほど、そういうことですか……」
違和感の正体がわかり、立勇は若干心の内がすっきりとする。




