47話 突撃訪問
「そう言えば、鏡と櫛を取って来るだけにしては時間がかかっていますね」
立彬も気になったのか、窓の外を見る。
秀玲というのはどうやらあの女官のことらしい。
――ついでにお手洗いに行ったとか?
そして自分みたいに、厠所の帰り道で誰かに絡まれているのかもしれない。
雨妹がそんなことを考えていると、それからすぐに秀玲が戻って来た。
そして部屋の扉を開けるなり告げる。
「ただ今、皇帝陛下がいらっしゃいました」
「んぐ!?」
「お茶が入りました」と言うのと同じ口調の秀玲に、丁度蒸しパンの大きなかけらを頬張っていた雨妹は、危うく喉に詰まらせるところだった。
――え、皇帝陛下が!? なんで来たの!?
普通皇帝というのは訪れには先触れがあり、こちらが万全の態勢で待ち受けるもの。
それが王美人の所で会った時もそうだったが、何故突撃訪問をするのだろう。
それに花の宴は外から皇族も訪れる大きな催しなのだから、あちらこちらを周るのに忙しいのではないのか。
しかし驚いているのは雨妹ばかりで、他の二人は特に表情を変えない。
「父上はいつもは花の宴なんて、適当に顔見せした後はさっさと下がるのに、わざわざここまで来たんだね」
そう話す太子はむしろ苦笑していた。
彼にとって、これは意外な訪れというわけではないようだ。
「ちょっと出迎えに行ってくるから、雨妹はここで寛いでいるといい」
そして太子はそんな軽い調子で秀玲だけを連れて行く。
というわけで、雨妹は立彬と一緒に部屋へ残ることとなるのだが。
――寛いでいろ、って言われてもさぁ。
ここで「あ、そうですか」とのんびりできるほど、雨妹は神経が図太くできていないつもりだ。
一体皇帝がどうして訪れたのか、気になって仕方がない。
理由として一つに、ただ太子に顔を見たくなって会いに来た。
二つに、大事な用件があってやって来た。
普通に考えて思いつく可能性はこの二点だ。
そしてこれらの想定において、もし後者だとすれば、先立っての大偉皇子の件と無関係と考えるのは難しい。
太子の話だと、大偉皇子の嗜好には皇帝も悩まされたと言っていた。
けれど、馬鹿な子ほど可愛いとも言うもので。
もしや「無礼な宮女がいた」とか告げ口されて、苦情を言いに来たのかもしれないではないか。
――今のうちにここから逃げるべき?
それとも大人しく隠れておくべき?
悩ましい雨妹は、落ち着かない気分で室内をグルグルと回る。
その様子をしばし見ていた立彬が、「はぁ」と大きく息を吐いた。
「落ち着け、せわしない。
それほど気になるならば、話を聞きがてら覗きに行くか?」
「……は?」
まさか太子の側付きの立彬から、盗み聞きを勧められようとは予想外だ。
「そんなことをしたら、叱られるじゃないですか」
「なに、ばれなければ叱られることもない」
雨妹は正しいことを言ったはずだが、立彬は動じない。
――そりゃそうだけどさぁ!
立彬の悪びれない堂々とした言い方に、むしろ雨妹の方が間違ったことを言っている気分になる。
それに彼なら、盗み聞きに適した場所を知っているのだろう。
それから雨妹は、盗み聞きなんて良くないこととはわかっていても、結局好奇心には勝てず。
現在、立彬に付いて庭園をコソコソ移動していた。
――なにしてるんだろう、私って。
花の宴でただボーっと立っているだけの一日だったはずが、どうしてこんな風に間諜めいたことをしているのだろうか。
ともあれ、雨妹は音を立てないように慎重に歩いていると、立彬が突然立ち止まった。
「ぶっ!」
後ろを歩いていた雨妹は、その背中に顔面を打ち付ける。
――これ以上鼻が低くなったらどうするのさ!
文句を言おうとした雨妹に、立彬が「静かに」と仕草で示す。
するとその直後。
「明賢よ」
思ったよりも近くから皇帝の声がしたので、雨妹はビクリと肩を跳ね挙げた。
声が近いのも当然で、雨妹から見て斜め上の高い場所にある回廊に、皇帝が太子と並んで立っていた。
――ビビるから、「もうそろそろ」とか言っといてよ!?
雨妹はそう立彬に噛みつきたくなるが、声を出して皇帝や太子に見つかるわけにもいかず、ぐっと堪えていると。
「雨妹という宮女がお前の宦官に連れられて行ったと、聞いたのだが」
皇帝の話の内容に、雨妹はドキリとする。
――やっぱり、告げ口されたから探しに来たの!?
縮こまる雨妹の耳に、続いて太子の声が聞こえる。
「確かに、雨妹はこの宮におります。
私の妃が彼女とお茶を楽しみたいと言いましたので」
朗らかな太子の言葉に、皇帝は唸るような声を漏らした後。
「その、なんだ。大偉の奴に絡まれたとも聞いたのだが」
皇帝の遠慮がちともとれる言葉に続いて、太子が小さな笑い声が聞こえた。
「陛下はずいぶんとお優しい、
一介の宮女のご心配をなさったのですか。
はい、大偉の困った嗜好の被害を被る寸前だったらしいのですが、すんでのところで助けが入ったようですね。
直後は気が動転していたらしいですが、今では元気に蒸しパンを食べておりますよ」
「……そうか」
皇帝が呟いた声は、安堵しているようにも聞こえた。