416話 幡の街
そのような騒動があった後、沈はこの宿に当初の予定通りに滞在した。
けれどその沈が出立する際、宿側の見送りの顔色が非常に悪いのは、なにか通達でもあったのかもしれない。
――もしかしてこの宿、帰りには更地になっていたりして。
雨妹は半分冗談、半分本気でそのように思う。
その後も比較的のんびりとした道中となり、揚州との関所も問題なく通過する。
関所といえば、徐州の関所を通った際にはお忍び旅だったこともあり、他の通行人たちと一緒に行列に並び待ったものだ。
けれどこちらは皇子一行として通るので、事前に通達されていたこともあり、特別に優先的に通してもらえた。
雨妹たちの乗る荷車も、さして取り調べられることもない。
――悪者はこうやって、密輸とかしちゃうんだろうなぁ。
雨妹は特権的立場になってみて、偉い人は密輸し放題なのだと改めて考えさせられる。
つまり密輸をするかしないかは、偉い人の人格に委ねられているというわけだ。
先日明に聞かされた斉家についても、この「偉い人特権」を悪事に利用して、戦乱期の混乱で宮城の監視がなくなったこともあり、やり過ぎたのかもしれない。
雨妹は関所を通るために並ぶ人々を横目にしながら、そのように想像してしまう。
それはともかくとして。
関所を通り過ぎてまた山道を行くことになり、雨妹もそろそろ荷車旅に飽きてきていた頃。
旅路はやっと目的地に達しようとしていた。
「じきにこの山道を抜ける。
そうすれば景色も変わるぞぉ」
腰が痛くなったので歩こうかと思っていた雨妹に、ふいに呂がそのように告げる。
「本当ですか!?」
景色の変化は大歓迎とばかりに、雨妹は前の景色に齧りつくことになった。
そうやって前をじぃっと観察していた雨妹だったが、やがて山道の終わりが見えてきた。
山道の先にあるのは、赤い大地だ。
荒涼とした赤っぽい砂地に、低木が所々茂っているのが見える。
「うわぁ……!」
辺境の景色とも、佳で見た景色ともまた違う、異国を感じさせるどこまでも広がる赤い大地に、雨妹は感嘆の声を漏らす。
その大地にまるで貼り付くように、大きな街があった。
「あれが幡、人と金と喧嘩が集まる街さぁ」
呂がその街を指さして、そのように説明する。
「ははぁ、いかにも賑やかそうですねぇ」
呆けたように前方を眺めていた雨妹が、街の様子をもっと良く見ようと身を乗り出した時。
「いかにも、賑やかな場所だな。
そしてあそこが、我が棲み処でもある」
何故か沈の声が聞こえてきた。
訝しんで視線を巡らせれば、なんと雨妹の乗る荷車の近くで騎乗しているではないか。
「えっ、いいの……!?」
この一行で最も守られるべき皇子の片割れが、無防備に馬に乗っていることに、雨妹はギョッとする。
そんな雨妹を見て、沈が「ははは」と笑う。
「良いも悪いも、我は普段であれば、このように軒車に閉じこもるような移動はせぬよ。
これはあくまで、友仁のための移動である。
だが我とて、いいかげん飽きたので気晴らしだ」
なんとも正直な皇子である。
しかし「これでいいのか?」と戸惑う雨妹が呂にちらりと目をやれば、あちらは「まあ、いいんじゃないの?」という風な表情であった。
これは雨妹がビビり過ぎなのか?
いや、前後の荷車がざわついているので、きっと慣れている方がおかしいのだろう。
――下っ端には心臓に悪いから、気晴らしはそこそこにして軒車に戻って!
雨妹のこの願いが、ぜひ通じてほしいところだ。
「そうだ、我もその焼き饅頭が欲しい」
だが願いは通じず、どうやら沈は雨妹の石焼き壺の中身を狙って近付いたらしい。
しかも確実に、食べ頃の匂いを嗅ぎつけて近付いたのだ。
「……おひとつどうぞ」
偉い人に逆らえない下っ端雨妹は、仕方なく焼き饅頭をひとつ提供することになった。
そんなことがありつつも、幡にようやくたどり着いた一行であったが。
出迎えのためらしく、豪奢に着飾った女たちが通りにずらりと並んでいた。
――え、なにこの人たち?




