377話 またね
苑州から都に、静の弟の宇がやってきた。
それは、静の家族が迎えに来たということでもある。
すなわち、これで静の後宮潜伏生活も終了となるのだ。
という訳で本日、人の出入りが滅多にない裏口で、雨妹は後宮を去る静と、同じく滞在している兵舎を出るというダジャを見送ることとなった。
目立ってはいけないので、見送りは雨妹一人だけだ。
離れた所で、宇とそのお付きである毛露がこちらを見守っている。
「よかったねぇ静静、これでコソコソしなくても済むよ」
「うん……」
笑顔で肩を叩く雨妹の前で、静が複雑な顔で俯いている。
ところで、静はこれから苑州に帰るわけではない。
一旦内城のとある人の邸宅に身を寄せるのだ。
そのとある人というのが、なんと大偉である。
先だって、宮城から発表があった。
なんでも苑州には新しい大公が立ち、それがあの大偉だというから驚きだ。
その上皇帝が宣言した出兵計画に先立って苑州入りをして、州城に巣食う東国兵を速やかに追い出したというのである。
――あの人、ただの髪フェチじゃあなかったのか……!
楊が「大偉皇子は花の宴に来ない」というようなことを述べたのは、ひょっとしてこのあたりの事情を知っていたのかもしれない。
だがどんな奇跡を起こしたのか、幸か不幸か間に合ってしまったのだけれども。
いや、あの時東国人の自爆を防いでダジャの命を救ってくれたのは、幸いなことなのだろう。
どうしても雨妹の奥底の本能が、あの皇子を拒否してしまうというだけだ。
まあ、それはともかくとして。
大偉はしばらく内城にあるという自身の邸宅で休養して、それから再び苑州入りをするのだそうだ。
そして大偉の邸宅に、何家姉弟とダジャの身柄も移されることとなったと、そういうわけだ。
「なんて顔をしているの、これが今生の別れでもあるまいし!」
しょんぼりしている静を、雨妹はギュッと抱き寄せる。
「楊おばさんがね、文字見本はそのまま静にあげるってさ。
字の勉強をして、私に手紙を書いてよね。
私も返事を書くから」
静が背負っている荷物の袋を、雨妹は抱きしめたままポンポンと叩く。
この荷物の中身は、身一つで都までやってきた静が、頑張って手に入れた物ばかりだ。
一緒に作ったリバーシも入れてある。
「……ん、頑張って書く」
そう言って静がやっと顔を上げると、その隣にダジャが進み出てくる。
「娘、口添えに感謝する」
「いえいえ、お国の人が無事だといいですね」
礼を言ってくるダジャに、雨妹はそう返す。
実は黄才から情報があったのだが、徐州の港町である佳に、最近把国から逃げてきた人を乗せた船が流れ着いたのだという。
ダジャは静と一緒に大偉の屋敷に滞在し、旅に必要な身分証を手に入れ次第佳へと向かうらしい。
把国人らを確認して、できるならば保護をしたいそうだ。
その旅に、何家の双子もついて行くという。
「だって、僕はダジャの保護者だからね!」
というのが、宇の言い分である。
だが半分くらいは、海の魚が食べたいという理由があるようだ。
――今世で岩山地帯から出たことないなら、きっと海の魚に飢えているよねぇ。
なので、「どうか海鮮料理で持て成してほしい」と、微力ながら雨妹が佳の街の統治者である利民に手紙を書いて、ダジャたちに持たせている。
利民はあれで恩義を忘れない男なので、きっと双子やダジャを粗末には扱わないだろう。
いや、もしこの旅に大偉がついて行ったら、利民とそりが合わなくて喧嘩をしそうではある。
雨妹としては、そうならないことを祈るばかりだ。
そんな楽しいことが待っているというのに、静はいつまでも浮かない顔であった。
「笑って、静静。
そうしたらきっと、再会の日まで楽しいことがたくさん起きるから」
雨妹がそう言って、静の頬を両手でむにっと上げてやると。
「雨妹は、嘘をつかないものね」
静は無理矢理な泣き笑いをしてみせたので、雨妹もニカリと笑みを返す。
「静静、また会おうよ!」
「うん、またね!」
「では、また」
そう話すと、静は雨妹から身体を離し、ダジャと共にゆっくりと宇たちの元へ歩いていき、彼らの姿が角を曲がって見えなくなるまで、雨妹は手を振り続けた。
そして、誰もいなくなったところで。
「行ったか」
「あれ、杜さん」
いつの間にか、雨妹の背後に杜が立っていた。
近付く気配すら感じなかったのは、さすがである。
「一緒に見送らないでよかったんですか?」
雨妹が今更な問いをするのに、杜が首を横に振る。
「あの毛家の娘が、勘付かないとも限らぬゆえな」
なるほど、毛は苑州の偉い人の娘らしいので、皇帝の姿絵などで見知っている可能性もあるだろう。
念のために隠れていたということか。
そう納得したところで、雨妹は杜に向き直り、改まった表情になった。
「杜さん、私は杜さんから頼まれたお仕事を、ちゃんとできていましたか?」
雨妹は杜から、「静に生きる術を授けよ」と頼まれたのだ。
出来るだけのことをしたつもりだが、杜の目からはどう映っただろうか?
「……」
これに杜はしばし無言で考える仕草をする。
その間、雨妹は胸をドキドキさせながら答えを待つ。
「……うむ、上出来すぎるくらいに上出来である。
我の目に間違いなかった」
そして、杜から満面の笑みで合格を言い渡され、雨妹が大きく安堵の息を吐いたところへ、続いて言われたのは。
「実に自慢の娘よな」
この言葉に、雨妹は目を丸くする。
「娘」というのは、「女の子」という意味での言い方だったのだろう。
少なくとも、他者にはそう聞こえたはずだ。
しかし雨妹がこれを別の意味に受け取るのは、それこそ雨妹の勝手だろう。
「へへへ」
なんだか頬が熱くなってしまい、雨妹はパタパタと手で仰ぐ。
「だが、別れの時とは寂しいのぅ」
そんな雨妹から杜が敢えて視線を外し、静たちの去った道へ目をやる。
けれどそんな杜に、雨妹は語った。
「そうですけれど……別れっていうのは、新たな出会いを連れてくるものでもあるんですよ!」
「ふふ、そうか」
そう言って雨妹が見せた弾けるような笑顔を、杜は眩しそうに眺めるのであった。




