350話 意外な申し出
恩淑妃がいつも連れている女官だけを供にして、こちらへとゆっくりと歩いてきていた。
――急に大人びてこられたな。
立勇は恩淑妃を見て、ふとそのように感じる。
昨年の花の宴の頃の恩淑妃は、まだ子どもっぽい仕草をするお人であった。
けれど今年は春節前あたりから急激に背が伸びて、「少女」ではない雰囲気を漂わせるようになっている。
立勇自身にも覚えがあるが、この年頃の一年はとても密度が濃いものだ。
色々とあった経験が、恩淑妃を大人へと引き上げたのだろう。
けれどその恩淑妃が、このような裏門まで自ら足を向けるとは、思いもよらなかった。
しかも花の宴の際中である。
「ご用事でしたら、このような場所に自ら赴かれなくとも、お呼びくださればこちらが向かいましたものを。
宮の方々がお探しなのではないですか?」
立勇がそう述べるのに、恩淑妃はツンとすまし顔になる。
「わたくしがおらずとも、宮は回るのですって。
ならば勝手にさせておけばいいのよ」
恩淑妃の言葉に、供の女官が苦笑している。
あの様子だと、恩淑妃は宮の中で揉めてしまい、気晴らしに散歩をしていたのであろうと推測された。
皇太后や皇后の手の者が多くいる恩淑妃の宮は、恩淑妃の意思を飛び越えて、皇太后や皇后の意思を慮って動くことが多い。
以前はそうした流れに逆らわず、言いなりになることが常であった恩淑妃であったが、最近は己の意見を述べるようになっていると聞く。
まあ得てして聞こえてくるのは、「身の程を弁えていない」という皇太后や皇后側の意見であるのだが。
恩淑妃とて、そろそろ己の身分について理解ができてきている年頃である。
最近は江貴妃と明賢に対して、距離を測ろうとしている様子が見受けられる。
それも恐らくは自分は明賢の妃であり、まるで二人の子どものように甘えているばかりではいけない立場なのだと、わかり始めたのだろう。
明賢は彼女を淑妃の身分から解放し、誰かに嫁がせてやりたいらしいが、恩淑妃としてはそれを選択するには難しい立場だ。
恩淑妃はまだ十分幼いとも言える年頃であるのに、自身に将来を決める自由はないということを、よくわかっているようであるのが痛ましく思う。
後宮入りした当時の恩淑妃が、政略婚ということの意味を知っていたとは、到底思えない。
無知を利用して押し込んだも同然である。
その恩淑妃が、立勇に告げる。
「裏門に誰かいるという話を聞いて、もしやあなたが懇意にしていらっしゃるあの宮女かと思いましたのに」
なるほど、恩淑妃は雨妹がいるかもしれないと考えたのか。
確かに雨妹がなんらかの用事があって太子宮を訪ねてくる際に、この門を使う機会は多い。
恩淑妃にとって、雨妹は興味をそそられる存在なのだろう。
残念そうに息を吐いた恩淑妃であったが、次いで立勇と共に居る静に目を向けた。
「あなたは服にも顔にも土をつけて、花の宴でそのような格好をしていてはいけないわ。
ばあや、娘の身を清めてあげてくれるかしら?」
「はい、媛様」
恩淑妃が指示を出すと、女官がまずはこの場で出来る清めとして、手巾で静の顔についた土を拭い始める。
「預かる」という言葉は、どうやら恩淑妃の中では決定しているようだ。
「へ? え?」
見知らぬ相手から世話を焼かれていることに、静は目を白黒させていた。
――悪くはない選択肢だ。
立勇は素早く思考を巡らせる。
恩淑妃は皇太后派であり、それゆえに宮の守りにも十分に人員を割かれている。
影が妙にざわついているという不安があるので、できれば目に見える安全を選びたい。
それに静の身柄について、太子宮でも労力を費やしたという証がこれで立つ。
このことはすぐに明賢にも知らせが行き、あちらでもなにかしらの対策をとってくれることだろう。
「それでは、この娘の身柄をお願いできますでしょうか?」
「ええ、任せてくださいな。
あなたが迎えに来るまで、きちんと持て成しておきますわ」
結果、この提案を受けた立勇に、恩淑妃が笑みを浮かべる。
「何静、このお方がお前の身柄を預かってくださる。
失礼のないように振舞いなさい。
恩淑妃、なにぶん教育不足の新人宮女ですので、多少の無礼はどうぞご容赦願いたい」
「わかりました、わたくしは些細なことを気にしなくってよ」
静と恩淑妃に注意事項を述べると、恩淑妃はそのように鷹揚に頷いてくれる。
「あ、あの、じゃあこれ!」
そして慌てた様子で静が懐から出したのは、簪だ。
立勇が今年の花の宴用にと、雨妹に贈ったものだった。
そういえば静の髪に刺してある簪は、昨年に贈ったものである。
「いつの間にか、私が握っていたの。
これ、雨妹に返しておいて、きっとだからね!?」
「わかった、きっと返しておこう」
手渡されたその簪を立勇は撫でてから、静に向けて頷くのだった。
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